aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

木を見て森を見る

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 とあるブログのエントリを読んで、違和感を覚えたので、勢いだけであまり考えずに粗っぽく書く。

 

 近代西洋の科学的思考、合理的思考の強みは、物事の些末な枝葉を切り落として、根幹だけに集中して、物事を単純化し、考えやすくする、ということにあると思うんですよね。いわゆる、抽象化。

 ただ、21世紀にもなると、その弊害も色々と指摘されていて、1つには、たった1つの成功パターンが模倣されて(枝葉の部分は無視したまま)、物事の多様性が失われていく。そして、ときには、枝葉と思われて捨てられた中に、隠れた重要性が見落とされていて、大きな障害が発生することもある。

 電子計算機技術の高度化によって、枝葉までも一挙に数理処理可能な時代、という流れもあって、何が根幹で何が枝葉かをきちんと見極めよう、というのが21世紀の考え方だと思う。

 

 で、きっかけとなった、こちらのブログ。

d.hatena.ne.jp

 

 ちきりんさんの主張は、地方活性化で大事なことは東京と張り合うことじゃないよ、(ひょっとすると今は偶然、東京に住んでいるかもしれないけれど)自分たちの地域で暮らす可能性がある人たち(顧客)とは、どんな人なのか考え(ターゲットの絞り込み)、その人たちにどうやったら自分たちの地域を伝えられるのか(マーケティング)、他の似たような地域は何をやっているのか見てみよう、ということなのだと思う。

 

 その点について、異論は一切ない。

 

 ただ、そのときに、街の分類が、東京と東京オルタナティヴ(メガシティ)、地方拠点都市(数十万都市)、田舎の農山漁村の3つに分けられてしまうと、人口10万ちょっとで、かつちょっとポテンシャルを信じて暮らしている街の住民としては、素直に同意できない。

 

 ちきりんさんは自分は大都市志向だと書かれているとおり、地方の存亡に対してご興味はないのだろうし、それにも関わらず、誰でもアクセス可能な地方論をしっかりと収集して、整理しているのは、さすがだなあ、と思うんですが、結局、こういう基本論は(抑えておくことは当然として)、何の解決にもならない。

 これから先、うちの街が問うていくべき街の姿、闘うべき競合を見ていくとき、こういう表層の区切り方では、問題の本質を見誤る。この区切り方で、うちの街がどこを目指すかを考えても、(この区切り方では)後発に甘んじる、うちらの街はレッドオーシャンに飛び込んで、血祭りになるだけ。

 これまでも地方自治体が、東京のコンサルに金太郎飴のような総合計画を作らせて、何も活性化せずに終わってきた、という構図は、まさにこういうことではないのだろうか。

 

 この3区分は確かに地方論に興味がない1億2千万人の日本人の大多数にとっては、理解しやすい基本モデルなのだろう。

 だけど、うちらがこの3区分に従う必要はない。

 

 この3区分以外に存在するのか? お前の街なんか知らねえよ、と言われても、うちの街が特に地方活性化の成功例としてメディアに取り上げられないのは、過去、そこまでピンチに陥っていないから、だと思ったりしていて。

 行政が特別な政策を実施しなくても、しっかりと地域に根付いた基幹産業があって、人口の流出を(ある程度は)食い止め、周辺人口を(ある程度は)吸い寄せてきたから、地域の活力を「維持」はしてきた。

 

 もちろん、日本全体の若者が減り、高齢者が増えていくこれからの時代、「維持」すらも困難になる可能性は大きくて、悠長なことは言っていられない。

 

 でも、そのとき、うちらの街が活力を得るために必要なことは、1億2千万人の日本人にとっては、枝葉として切り捨てられるのかもしれないけど、うちら10万人にとっては枝葉ではない、他の地域と違うこととは何かを突き詰めて考え、磨き、発信していくことなのだろう。

 外部のコンサルは1億2千万人向けの発言をせざるを得ない。だから、10万人のうちらに本当に必要なことを考えられるのは、やはりうちら自身しかいない。まあ、ときに外部の助けを借りるにしても、最後に決めるのはね。

 だから、ちきりんさんが言う「自分の頭で考えよう」ってフレーズは本当に大事だと思った次第。

改めて地方活性化とは何なのか/こばやしたけし「地方は活性化するか否か」

 このところ文献を渉猟したり、読んで思ったことを頭の中で整理したり、それをこのブログに書き留めたり、ということが滞りがちで、ちょっといけませんね。これから独立創業者になるにあたり、自分のタイムマネジメントと言うのは、経営者が管理すべき資源の中でも最も重要なものと思われるので。なるべくルーチン作ってしまって何時までに何をする、と決めてしまうのがいいのだと思いますが。

 

 で、こないだ東京に行く用事があり、帰りの新幹線の中でさくっと表題の「地方は活性化するか否か」(公式略称、ちかすい)読破しました。

※行きの新幹線で読み終わった本は時間をかけすぎて前半の詳細を失念しているので、考えをマトメきれない、、、

 

地方は活性化するか否か (マンガでわかる地方のこれから)

地方は活性化するか否か (マンガでわかる地方のこれから)

 

 

 マンガだし、個人的には、原作となったブログでの4コマ版も全話既読だし、また、3月末まで当該分野に従事していた者でもあるので、すらすら読めました。

Web4コマ 地方は活性化するか否か

 

 一般の方、ただ単に今、地方都市に住んでいて(移り住もうと思っていて)、この先、自分の生活や子供たちの生活はどうなるんだろう、と漠然と不安に思っているような方が読んでも、今の地方都市で問題となっていて、少なくとも一市民としてのレベルで考えるべき論点は、網羅した上で、マンガ形式で分かりやすくマトメられていると思います(地方行財政とか、そういう政治家や行政職員が考えるべき論点は、他にもあるけど、そういうのは活性化の後から付いてくるもの、と市民レベルでは考えておいていいのでは)。

 作者のこばやしさんには新聞記者のお知り合い等がいて情報提供を受けていたそうですが、とは言え、これだけ網羅的に書かれるからには、相当、勉強、取材されたのだろうな、と思います。地方都市の市役所職員でも、ここまで論点を整理できている人は決して多くないし、市役所職員(や受験希望者)は結構、読むと勉強になるのでは。

 オリジナルの4コマ・ブログは、ブログ形式という特性上、一気読みしようとすると、ページ遷移が面倒くさかった記憶があるのですが、本、かつ4コマベースの起承転結のテンポを残しながらストーリーマンガとなっているので、その点も、さくさく読めます。

 

 なお、この本を読んで、改めて考えさせられたのは、「地方活性化」とひとくくりに言っても、この本で扱っているのは、あくまで、こばやしさんがお住まいで、マンガの舞台である「みのり市」のモデルとなった、秋田市、人口30万人程度の地方都市(いわゆる「中核市」)の問題だ、ということ。

 これより大きい政令市は中心部には同じような問題を抱えていても、郊外ベッドタウンとの兼ね合いがもう少し複雑なんだろうと思います。

 また、人口規模がもう少し小さい街には少なくとも2つのパターンがあって、ウチの街のように、明治以前からの旧市街(ほぼ徒歩圏の集積を持つ市街)を温存している独立都市と、大都市の郊外に明治以降発達した衛星都市(ベッドタウンや工業地帯)の場合で少し様子が違いそうです。

 うちの街の場合は、小さくても「みのり市」とだいたい同じ構造だと思っていますが、たとえば、駅前に中心が移る前に自動車化が進んでしまったので、旧市街と中心市街地はほぼ同義語ですが、そこは駅前商店街とは一致しないんですよね。うちらは、そういう微妙な差を1つ1つ整理して取り組んでいく必要があるだろうと思います。

 

 また、さらに小さい、平成の大合併でやっと市になったり、近隣の都市に吸収されたような農山漁村部でも、問題は少し違うのだろうと思います。ウチの街にも昭和・平成の合併で一緒になった自動車圏の郊外部が存在しますが、それらの地域にお住いの方が、この本を読んだときに、自分たちの問題として的確に置き換えられるのか、ちょっと想像がつきませんでした。

 そういった縁辺の農山漁村の問題を、地方都市民が切って捨ててしまうと、では、地方都市も捨てて、東京だけ残ればいい、という思考と同じではないか、という話になりかねないなー、と。

 

 地方都市は生き残れるのか。

 個人的には、都市とは何かと考えれば、不特定多数が一定の頻度で物理的に顔を合わせられる空間(顔を合わせることで、意見や情報を交換し、協働して新しい事業に取組める空間)であることが都市の強み、存在意義なのだろう、と、今回、本書を読んで改めて思いました。

 そうなると都市は、人口が少なすぎても(メンバーが固定化しがち)、多すぎても(任意の再会頻度が低く、結局、メンバーが価値観によって固定化されがち)、あまり活力を生み出さず、市域の広がりや集積部へのアクセス性も踏まえた、適切な規模、というのがあるのだろう、と思います。と言うか、それを信じてやるしかないのかな、と思った次第。

 

 最後に、改めて、この75話前後の展開はいーはなしだなー、と思いました。がんばります。

《第75話》理解したか? 〜ドゥー・ユー・アンダスタン? : Web4コマ 地方は活性化するか否か

逆説的ですけど民主主義が成熟するほど行政は非民主的になるよね、的な話

 なかなか興味深い組織論。

toyokeizai.net

 

 まあ、私の前職は民間企業じゃなくて、役所なんで、民間とは少し事情が違うと思うんですが、同質性を高めたい幹部職員が仲良しごっこをやってて、多様性をどんどん喪失し、問題解決能力を放棄している組織、という点では、まったくこの通りですよね。

 

 とは言え、一人の有権者として、民主主義社会の行政組織がどうあるべきか、と考えたら、新しい問題を解決する能力がない、決まりきった事項を淡々とこなすだけの市役所であっても、仕方ない、という考え方もありうる、と思うのです。

 民主主義社会の中で、最も非・民主的な組織として行政組織が存在しても仕方ない、と思うのです。

 

 と言うのは、民主主義社会というのは個人の自由を尊重する社会であり、そのためには特定の権力を排除する努力こそが西洋民主主義の歴史であり、一定の権力を有する行政組織が、新しい課題に対して、正しいのかどうかも分からない答えを探して突き進むような行為は、途端に権力の暴走に結びつきかねないからです。

 

 だから、行政は新しい課題に対して答えを探すことなど、してはならない。

 ただ、市場の中で決められたことを粛々と追随していけばよい。

 

 とは言え、市場は短期的な課題解決に集中しがちで、長期的な課題やヒズミに対処しきれないこともあるのではないか。

 市場が万能ではないから、そこを是正する仕組みとして政治が必要とされるのではないか、という考えもある、と思うし、そう思ってたから、市役所に入った訳ですけども。

 市場に対抗するのではなく、市場主導による社会変化を緩やかにし、こぼれる人たちを救う政策、あるいは、市場が向かう先にある課題を明らかにし、その回避策の可能性を含めた多様な選択肢に光を当て、市場に働きかける政策。

 そういう役割を市役所が果たすべきなんじゃないか、と。

 

 ところが結局、市役所を辞めるに至ったのは、今の市役所にそんな能力はない、ということです。

 なぜならば、「民主主義とは多数決のことで、優秀な市民が常に正しい判断をできるのだから、選挙による投票こそが正義なのだ」、と考える政治家の下では、結局、選挙制度が市場と同じ仕組みでしか動かないんですよね。

 僕は人間がそんなに優秀な生き物ではなく、すべての答えを知っている訳ではないし、自分の興味や関心がないものには正しい答えを出すだけの判断材料を持ち合わせていないから、市場がしばしば間違った選択をしてしまう、と考えてきた訳で。

 そういう視点の下に、市場原理を補正する仕組みとして、社会問題の専門家たる政治家や行政職員が、市場に対して社会問題と、その是正案を提起していく、という行為が必要なのだ、と考えているんですが。

 

 一方で、小選挙区制の導入や、小泉郵政選挙民主党政権交代と失敗、そして低下し続ける投票率、という一連の流れが示したのは、今の政治家は、専門家ではない市民との対話を志向しているのではなく、選挙を単なる人気投票と見ていて、より市場原理に近づけようとしている、ということです。

 専門的知識を持たない一般市民の短期的、感情的な判断を助長する方向を好んでいる。

 

 エベレット・ロジャースの普及学を持ち出すまでもなく、本当に新しい課題に対して、答えを出せるのは少数で、多数派はその価値を当初は理解できない。

 普及学 - Wikipedia

 

 だから、もしも多数決こそが民主主義なのだ、という理解が社会の多数派だとしたら、本当の社会問題に対して、政治家や行政組織は解決策を持ちえない。

 社会的な課題に対して、新しい解決手法を提起するときに、権力の暴走を抑止しつつ、社会の多数派の支持を得ていくためには、結局、市場の中で私的な活動として小さく始めて、徐々に賛同を得ていくしかない。

 そして、ダーウィンの進化論のように、本当に正しい仕組みをきちんと構築していけば、それは市場の中で淘汰されずに生き残ることができるはず。

 本当に社会的な課題を解決しようという意識と、その解決能力を持つ人間は、敢えて市場の中で解決できる仕組みの構築に、その資源を投入するしかない、と言うのが、結局、市役所を辞めた理由です。

 

 

 むしろ、政治家や市役所は、市場に追随するしかないのだから、新しいことなどに取り組むべきではない。

 もはや社会問題を解決しようなどと取り組むべきではないし、いたずらに手を出して混乱を招くべきでもないし、また、解決する気もないのにするフリなどもすべきではなく、市場にすべてを任せるべき。

 

 そういう訳で、決まりきったことを間違いなくこなすだけの市役所、というのも、有権者の立場としては理解できるのです。

 

 ただ、一人の職業人としては、そんな組織で自分の時間を空費したくない。

 それは自分がホストクラブやプロ野球選手を目指さないのと同じように、社会で必要とされる仕事なのだろうけれど、自分がやるべき仕事ではない。そういう仕事が得意で、好きな人たちが勝手にやっててください。

 

 まあ、有権者や納税者の立場としては、朝8時30分から夕方5時15分まで淡々と働くだけの人たちに支払うコストとしては、時給800円の臨時職員でいんじゃないの、と思うし、そのうちすべて機械(電子計算機)に代替すべきだと思いますが。

インクとソクラテス

 なんか、ここ数日、SNS上でインク商法が炎上してるなー、と思ったら、発端はこの辺の記事がバズって

gigazine.net

 

で、さらに、netgeekで火力強化という、いつものパターンか。

netgeek.biz

 

 面倒くさいんで動画見てないけど、別にカートリッジの残量すべて使わせないのがケチだとも思わない。環境負荷的な話は、また別として。

 タンクの構造的に全部を出せない、とか、全部出すとハードに負荷をかける、とか、そこまで配慮すると生産コストが高くつく、とかは、普通にあるんじゃないかなー、と。

 netgeekが価格比較するのに本体はカカクコム(安い下限値)使って、インクはアマゾン(下限値か不明)と定価(一番高いに決まってる)というのも、まあ、何なんでしょうね、とか思うし。

 

 とは言え、netgeekの記事で指摘しているとおり、ジレットの替刃カミソリに始まって、家庭用ゲーム機のハードとソフトや、携帯電話の本体と通話料のように、インフラを安く提供して利用料で儲ける「インク商法」というビジネスモデルが現代社会に適合していけるのか、という課題は興味深いところ。

 

 もう少し、個別の企業がどこの部分でどのくらい対価を得ているのか、ということを納得、共感できる(騙されていない、不当に搾取されている訳ではないと思える)ビジネスモデルが必要とされているのだろうな、と思います。

 合法かどうか、とか、定められた手順に従っているかどうか、以上の行動を求められている、少し面倒くさい世の中が広がっている。

 

 それは別にSNSの普及で批判が拡散しやすいから、とか言うよりも、成熟した民主主義社会、というのは、そういうものなんだろう、と思うし、むしろ、SNSを開発した人たちや利用する人たちも、そういう社会を志向しているからこそ普及しているのだろうし。

 民主主義は、理性ある大人の思慮深い判断を前提にして、議論と説得が可能な社会システムとして理想視されすぎているように感じている(一部のインテリの人たちは、そう信じている、とたまに思う)んです。

 けれども、実際は、人間は、そんなに立派な生き物でもなくて、感情に振り回されたり、その場の思い付きで行動したりする、と言うのは、ソクラテスの時代から分かり切ったことで。

 だから、プラトンは少数の天才に支配を委ねる哲人政治を志向し、アリストテレスマケドニアに逃れたのだろう、と思うのですが(いや、プラトンの著作を真面目に読んだことがほとんどないので、完全に推測なんですけども/笑)、そんな天才はやっぱりいないよね、うちらアホはアホなりに民主主義でやっていくのが一番いいよね、というのが結局、ソヴィエト共産主義テクノクラシーの崩壊を見た後の一周回った結論じゃないか、と個人的に思う訳です。

 

 アホばかり集まってる社会では、民主主義は理想的な社会システムとしてなんか機能しないけれども、民主主義以上のシステムもやっぱり存在しないから、うちらみたいなアホはアホなりに共感とか納得感みたいな非論理的な価値を大切にしながら、民主主義社会の中で暮らしていくしかないよね、と。

 

 なお、個人的には、こちらのマトメ記事で出ている通り、もはや家庭用プリンタなんて、自動車なんかよりも余程、所有するものではなく、シェアするべき装置の1つで、コンビニのマルチコピー機でよくね?、と思うのですが。

blog.livedoor.jp

 

 あと、エプソンさんをもう少し擁護しておくと、より無駄なく使える詰め替えボトルの開発を進められているようですよ。8月の記事ですが。

ascii.jp

 

 

まあ、辞めるなら辞めた方がよい

 普段、あまりチェックしてない(けど、たまにTLに流れてくる)高知在住ブロガー、イケハヤ師の記事が、流れてきたので、一応、感想を。

 

www.ikedahayato.com

 

 ま、質問、と言うか相談を寄せられた立場上、相手に優しくならざるをえず、こういう回答になってしまうのは理解できるのだけれど、質問者の立ち位置に対して、ズレた回答だと思う。

 

 なんつか、おそらく本人の中で辞める結論は出ていなくて、むしろ親との関係性など辞めてしまえば、本来、どうにでもなる。

 

 辞めたいけど、辞める勇気が持てないことを親のせいにしてるだけだよね。

 

 と、何年も辞めようと思い続けて、踏ん切りつかなかった自分としては思うんですよ。勇気、つうか、不安を払しょくする何か。利害、損得を精緻に把握して、決断するプロセス。

 

 とりあえず、自分だったら、どういうアドバイスをするか、と考えてみると、まず、お若いようなので会社に在籍したまま、一度、本気で転職活動をしてみる、というのがいいんじゃないだろか。学生時代の就職活動…に失敗して、くだらない組織に所属している訳だから、それ以上に本気で。

 もちろん、転職活動が具体化すると、現在業務の引継ぎとかのための離職タイミング、とかも考える必要が出てくるけど、それは具体化してからでよい。

 まずは真剣に動いてみることで、自分が本当は何をしたくて、今いる組織の何に不満があるかをより精緻に考えることになる、と思うんですよね。

 

 あと、既存の組織に所属するのは、もう無理だ、自分で事業を立ち上げよう、と思うなら、その事業の立ち上げに、一体どれだけの費用が必要なのか、金融機関の融資や、現実的な知人の出資を差し引いた後、自己資金がいくら必要で、それを溜めるのにどれだけの時間が必要かを考える。

 事業に必要なスキルとかは、金を稼ぐ期間を決めてから、逆算でその時間内で学べることだけ学べばよい。どうせ、事業を立ち上げれば日々勉強だし、立ち上げた後の成長スピードの方が早いのだから。

 できれば、事業を始める資金だけじゃなく、終わらせる資金、つまり、その事業が失敗に終わったときに、社会復帰するためのリスタート資金として、いくらくらい必要かも考えて、合わせて貯金する。

 もちろん、どちらの資金源としても、自分のお金だけじゃなくて、既にお金を持っている/稼げる見込みの高い彼氏/彼女を捕まえておく、というのも十分、立派な選択肢だと思うんだけど。

 

 とりあえず、ムダだと思いながら1日8時間も(自分の場合は平均13時間以上+たまに飲み会+休日出勤)仕事に拘束されているのは、何よりも単純に、人生の貴重な時間を浪費している、と思います。

 それなりに仕事に注力し、結果を出してきた(つもりの)自分でも、そう思ってたんだから、仕事に打ち込めない人なら、なおさら早く動いたほうがよい。

 

 親は…「転職決まったんで会社辞めてきたわ」と事後報告だけすれば、何とも言わないでしょ?

 

 

地方活性化のための健全な批判精神と反知性主義

 毎度おなじみ木下斉さんによる、地域活性化あるある連載。

 

toyokeizai.net

 

 今回も、まあ、あるある、な感じではある。

 

 「そんなことないよ!」という人がいたら、その人は地域で具体的に事業に取り組んだことがない傍観者か、コンサル(笑)や専門家(笑)なのではないでしょうか。

 

 とは言え、そうは言っても、「木下さんは、東京のインテリの人だから」、と心の片隅で思ってしまう面もある。

 木下さんがこの記事で言おうとしていることを、やや違う角度で受け止めて、ちょっと違う方向でドライヴしていきそうな人の存在が、容易に想像できてしまう、と言うか。

 ちょっと違う方向感、と言うのは、いい年齢の人たちが、まるで高校生や大学生の学園祭やサークルのノリで、討死必至なつまらない事業に、貴重なリソースを突っ込んで空費してしまう、ようなパターン。

 もちろん、既存の概念に従って動いてきたから、今の衰退した地方がある訳で、冷静なオトナの価値観から評価すれば、やってはならない、と思えるような、新しい何かの可能性を信じて取組んでみる、ということは、地方都市には必要なことなのかもしれません。

 ただ、それが容易に反知性主義に結びつく、というのは、決して看過できない、今の日本が抱える闇だと思うのです。

 

 他人を説得するため、という題目を掲げて、事業計画をキチンと紙に書いてみることで自分の事業を客観視し、過不足を眺めて、論理的に対策を立てる、という作業自体は、大変、重要なことだと思うのですが、地方都市では、息を吸うように自然に論理的思考ができる人は、本当に限られているんですよね。

 元々、数が少ない上に、貴重な少数エリートの大半は東京の大学に行って、そのまま大企業に就職しちゃうから。

 偶然、帰ってきた少数と、学歴エリートではないけれど叩き上げで勘所を抑えた少数でどこまでやれるのか。

 

 もちろん、精緻な計画を作ったところで、どれだけ紙幅を尽くしても説得できない相手はいるし、どれだけ論理的な考察を重ねても、最後はリスクテイクをしなければ前には進めないことも、特に新しいことを起こそう、というときには当然、あります。

 計画書づくりそのものが目的となってしまっては、本末転倒です。

 でも、それでも、迷わずに、より効率的に目的地へたどりつくための、「旅のしおり」としての事業計画くらいは、あった方がよい。

 

 計画よりも本人のやる気や覚悟だよ!と言ってしまうと、地方都市では、確かに目新しくはあるけれども(まあ、大概、他の街でやったことの焼き直しだけど)、どう考えても上手くいきそうもない、明らかに失敗しそうな危険因子に、何ら対策を打たずにノリだけで走ろうとする人たちが山ほどいるのですよね。

 そういう人たちを賞賛する雰囲気ができてしまうと、それに対して賞賛しないことをノリが悪い、頑張っているあの人の足を引っ張るな、と批判するような空気すらもできてしまうもので、それはそれで、気持ち悪いと思うのです。

 

 赤の他人が勝手に取り組むことならば、どうぞご勝手に失敗してください、と、まだ思えるけれども、たとえば、自分が土地のオーナーだったときに、そういうヤバい案件に貸し出せるか、自分ちの近所にヤバい人が移ってきたときに、冷静にやり過ごせるか、むしろ本当に当事者意識を強く持っているならば、「そりゃヤバイんじゃないの?」と言える方が健全ではないか、と思うのです。

 

 比較的、自由を重んじる空気がある、うちの街ですら、若い人が新しいことをやるときには、「本気で大丈夫なんかや、あいつら?」という意見は、たびたび自分も聞かされてきたし、そのときに「うーん、任せてみるしかないんじゃないでしょうか」と答えられる案件ばかりではなく、「いやー、ヤバイと思うんですよねー」と答えてしまう案件だって、確実に山ほどありましたよ。

 

 東京と地方の差があるのだとしたら、新しい物事に意見を言うか言わないか、ではなく、そういう異論や疑念が、直接、当事者の耳に入ってくるかどうか、の差ではないか、と思うのです。

 あるいは当事者本人は、そういう親切な批判を「So fxxkin' what?」で流して、自分の計画を押し通せたとしても、彼/彼女を支援しようとした第3者が、地元有力者の顔色や全体の空気をうかがって自粛してしまう。

 

 そういう意味では、地方都市で何か新しいことを始めるときには、いきなり協力者の支援や、公共の許認可が必要な、大きなプロジェクトに手を付けるのではなく、自分の身の丈にあった、自分一人(か本当に信頼できる小規模なチーム)だけで、民間の私企業の責任で賄える、小さなプロジェクトから始めて、実績を積み上げ、信頼を勝ち得ていくしかないのだろう、と思った次第です。

デイヴィッドとゴライアス/スティーブ・ヒンディ「クラフトビール革命」

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/Osmar_Schindler_David_und_Goliath.jpg

 

 昔、映画「スターウォーズ」を解説する何かの雑誌記事で、帝国軍と反乱軍を完全に取り違えて、ルーク・スカイウォーカーを帝国軍、ダース・ヴェイダーを反乱軍と書いているのを読んだことがあるんですよ。

 ああ、日本人、というのは、権力とか権威、あるいは安定というものと、自由や解放に対する態度が、アメリカ人とは正反対なのだなあ、と。

 

 というわけで、ブルックリン・ブルワリー創業者で、元ジャーナリストのスティーブ・ヒンディの手による「クラフトビール革命」、最初の100ページくらいを読みました。

クラフトビール革命 地域を変えたアメリカの小さな地ビール起業

クラフトビール革命 地域を変えたアメリカの小さな地ビール起業

 

 

 まだ、アメリカ・クラフトビール・シーンの勃興についての話から出ませんが、1960年代のヒッピーカルチャーを受けて、70年代の西海岸には、インディ・スピリットが強くあったんだなー、と思う訳で、たぶん、そのあたりは、アップルをはじめとするシリコンバレー企業にも共通するマインドなのではないか、と思う次第。

 実際、本書中でも、しばしば、ダビデとゴリアテ、という記述が散見。

 もちろん、スティーヴン・キングの小説や、ティム・バートンの映画で、しばしば、周囲に誤解されるアウトサイダーが主人公になる辺り、アメリカ人にとっても、安定を求める勢力というのは、一定数いるのだと思います。資本主義の原理にならって、大規模な方が効率的、という現実も当然、あり。

 ただ、ピルグリム・ファザーズや、対英独立戦争をはじめ、自分たちのオリジンとして、大きなものに対抗する独立心旺盛な人を支援し、賞賛し、あるいは憧れ、敬う空気、みたいなものはあるんだろうな、と。

 

 日本人には、しばしば、自分たちを「サムライ」と形容したがる人がいますが、サムライとインディ・スピリットほど、遠い価値観もないよねー、とか思う訳ですよ。

 そもそものサムライの語源、「さぶらひ」は、貴族の近くに控える従者、という意味だし。また、現代的な意味でのサムライのイメージを形作ったのは、世襲制公務員であった江戸時代の行政職員としてのサムライであり、そこには、清の台頭により没落した明から亡命してきた儒学者たちがもたらした階級統治思想が脈々と流れている訳でありまして。

 

 まだ4分の1くらいしか読んでいませんが、ここまで感想として、ビールに興味がない人でも、中小規模事業の経営に関する本として、幅広い人にアピールするのではないか、と思います。もともと、自分がクラフトビールに興味を持ったキッカケは、市役所の産業振興部門勤務時代に、中小企業の生き残り戦略として知ったことですし。

 もちろん、チャーリー・パパジアン、マイケル・ジャクソン、スティーヴ・グロスマンとか、名前も聞いたことないって人には、ちょっと事実関係の整理とかが難しいかもしれませんが。