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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

エンリコ・モレッティを読んだ後、巨大なイオンモールを見て都市の将来を考えたんだけど

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 このあいだ、サマソニに行ってきた。噂の日本で一番デカいジャスコって、サマソニ会場の幕張メッセのすぐそこまで来てるんだ! 新習志野駅海浜幕張駅の中央あたりで、幕張からは、もう少し離れているのかと思ってたら、予想以上にデカい。

 

 で、ちょうど読み終わったばかりだったモレッティ「住むところで年収は決まる」の感想を本当は家に帰って、手元に本を置いて引用しつつ書こうと思ってたのを、幕張からの帰りの電車の中(2時間もある!)、手元に本がなくてあやふやな部分もあるけど、早めに書いてしまおう、と。 

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

 

 

 なので、本に書いてあることと、自分の感想がごっちゃになるかもしれない。モレッティも引用しているジェイン・ジェイコブスや、エドワード・グレイザー、リチャード・フロリダ(後者の2冊は途中まで読んで、バタバタしてる間に放置になってるので、半端な理解なのだけど)あたりの論と混同する部分もあるかもしれない。

 

 ※結局、書いてから公開するのに1週間かかったけど、敢えて読み返さない(笑)

 

 モレッティが主張するところは、(1)都市には交易型の産業と、地産地消型の産業があり、都市の発展には交易型の産業が不可欠で、(2)今後、それは知的な産業へとますますシフトしていく。(3)知的な産業には知的人材の集積が不可欠なのだけど、知的人材は一度、集積を始めると加速度的にスパイラルを上がっていく、という感じ。

 

 1番目の交易型と地産地消型があって、交易型が重要、という部分について、交易型の重要性は自明のことなのか、あまり詳しく解説していない。ただ、交易型の利益が、地産地消型産業を回す動力になる、ということなのだけど、それが帝国主義的な植民地収奪型、という意味なのか、相互の互恵的な発展関係にあるのかは不明。

 もちろん、現代社会では生活必需品の中でも、工業製品の占める割合が大きいので、当然、都市の外から買うものは多くあって、そのためには都市の外に売って外貨を稼ぐものは必要なのだろけど。それこそ、電気やガス、石油といったエネルギー源を自給できる都市は少ない訳で。

 産業革命とは一面でエネルギー革命なのだから、仮に外貨獲得が帝国主義的な収奪なのだとしても、じゃあ、それを放棄して、近世のような生活水準までレベルを落とすか、という話になる。

 

 モレッティは、都市内で交易型産業に従事する人は少なくても、経済的な影響度は極めて高い、と主張する。彼らが獲得した利益が、地元の飲食や日用品の購入に使われて経済が回り始め、そこから地産地消型の経済が動く、と。

 交易型産業の従事者が高所得だと、彼らの生活のために消費する水準も高くなるため、結果的にその地域内の地産地消型産業従事者も高所得になる(ただし、生活物価は高くなる傾向にあるため、地産地消型従事者の収入レベルと消費レベルの均衡は崩れる可能性もあって、そのことだけで豊かな生活と言えるかは注意が必要)。

 交易型産業と地産地消型産業は、それほど明確に区別できるわけではなくて、たとえば飲食店は通常、地元の人が使う地産地消型だけど、観光地では外貨を獲得する交易型になる。

 

 2番目の知的な仕事については、この本では基本的に、ITだったりライフサイエンスといったテクノロジー系の産業を重視しているけれど、そこも掘り下げが必要かもしれない。

 ただ、ハッキリしていることは、産業革命というのは、機械化の時代で、機械化は単純作業の継続的な反復を得意とする、ということ。現在では、さらに体を動かす作業だけではなく、電子計算機の普及によって、頭を使う分野でも単純な繰り返しの仕事は奪われつつある。

 

 では、機械化されずに生き残る産業とは何か。1つには、清掃員や運転手のような、周辺の環境があまりにも多様で、軽微な判断とはいえ、常に判断を繰り返す必要があるような作業。自動運転車のように、この判断作業もやがて機械化される可能性はあるけれど、逆にいうと、自動運転車の実現には、どれだけの投資すれば、この判断の繰り返しを自動化できるか、が重要なのだろうと思う。

 これらは、作業対象となる環境に人間が入り込む必要があるので、地産地消型でやらざるをえない。ノウハウを蓄積してチェーン展開することで、ある程度の外貨は獲得できても、最低限の雇用は現地に残る。

 製造機械のオペレータも人間が行う作業として残る部分はあり続けるだろうけど、肝心の製品そのものを外部に輸出するとなると、製造する場所に必然性はなくて、人件費や輸送コストのバランスの中で製造拠点の立地は決まってくる。

 福祉分野のような人との交流を必要とする産業も同様に、現地に残る。

 

 もう1つ生き残る産業で、輸出可能となるものは、既存の知識を組み合わせて、新しい発想を生み出す産業で、いわゆるイノベーションを起こす産業、ということになる。上記のような単純労働のノウハウを蓄積して効率化し、チェーン展開するような仕事も結果的には、イノベーティブな仕事と呼べるので、やはり輸出可能な産業は新しい何かを考えつく産業、ということになる。

 個人的には、これだけ交通が発達してくると、現地で作業が必要な仕事でも、わざわざ現地に住まずに、拠点は別の都市に置いたまま、年に数日出かけていく、ということもできるのではないかとも思うけれど。

 

 なお、モレッティは知的な仕事を、主に大卒者の仕事とみて、アメリカの大卒人口が伸び悩んでいることに警鐘を鳴らすのだけど、日本の場合、個人的には、大学を出ているかどうかとイノベーティブな仕事をこなせるかどうかは、あまり関係がないような気がする。

 まあ、それなりに偏差値の高い大学を出ている人は、中学・高校でそれなりに勉強をしてきた人たちで、機械に負けずに高い集中力で作業をこなす能力もあれば(そして機械化が難しいほどのパターンに人間なので対応できる)、勉強の負荷を減らすための(教師の指示通りには作業せず手を抜くための)、ささやかなイノベーションを繰り返してきた人たちが一定数いるのも事実だとは思うけれど。

 

 3番目の立地、集積については、たとえば、ジェイコブズも指摘するとおり、1次~3次産業に順次発展してきた、という歴史観はどうも間違っていて、やはり人間の経済活動の中心は…そもそも経済活動とは価値の交換なのだから、昔から商業が中心にあった。

 とはいえ、その交換活動の中心が、昔は、農産品や宝石とかのいわゆる広義の天然資源に始まって、徐々に工業製品にシフトしてきてはいる。

 そのとき農産物であれば土壌や気象条件、鉱物であれば埋蔵地といった地理的条件がその土地の特産品を決めていたし、工業製品でも港に適した土地とか、資材の生産地が近くて搬入が容易とか、の地理的条件に依存するところがあった。

 ところが、知的産業の場合、重要なのは人間なので、地理的な制約はあまりない(気候の過ごしやすさとか、冷暖房の費用とかは関係あるかもしれない)。

 

 むしろ、ある分野がその都市で勃興すると、その分野の優秀な人材を確保しやすくなったり、外注先や投資家などの外部機関の利便性が高まり、あるいは社内外の人間関係の中で有用な情報が共有されて、さらなるイノベーションを生んだりして、その都市の競争力がますます高まる。

 たとえば、前にドイツのシュトゥットガルトに遊びに行ったことがある。主目的は、ポルシェの本社併設の美術館を見に行ったのだけど、ポルシェの本社がこの街にあるのは、ここが元々、メルセデスベンツの本拠地で、ベンツの技術者だったポルシェ博士が退職して、そのまま創業したから、だったりする。ドイツの大手自動車部品メーカー、ボッシュも電車の窓から見かけた。

 

 モレッティは工業製品は今後、輸出産業にならないと言っているけれど、これまでの自動車工場や家電工場のような生産拠点として地方都市が誘致してきたものは、地方都市に留まらずに国外に流出していくにしても、研究開発機能は、イノベーティブな仕事として残る、というような主張にも読める。

 そして、おそらくは研究開発と製造現場の距離感、という問題もあって、製造拠点も本来は、なるべく近くにあった方がいいのだろう、と思う。たとえば、今はわからないけれど、数年前まで国内メーカのPCパーツは、量産化が始まっても初期ロットは、国内工場で生産されていて高品質、という噂があった。

 

 重要なのは物理的な距離よりも、情報共有の度合いなのだけれど、前述の都市競争力の人が人を呼ぶ、という要因を考えても、物理的な距離は近いほうがいいのだろう、と思う。

 おそらくは、人が新しい発想をする能力には大きな差はなくて、それよりも、とにかく多様な情報に触れていれば、新しい発想には至る。

 となると、どれだけ多くの人が、多様な情報を持った人たちが集まり、その人たちが自分以外の情報と接触できる環境が重要になるようだ。

 

 以上がモレッティの主張の概要で、ここで最初のジャスコに戻る。

 自分たちの街にジャスコのモールができるとなれば、それは規制することも誘致することもできる。でも、隣町にある日、突然、ジャスコが現れたら、隣町の住人はどう対応すべきなのか。

 確かに、この自動車化された社会では、隣町でも買い物は便利になるし、少し遠いけれど雇用も生まれて、従来の自動車や家電の工場を誘致した時代と何ら変わりないかもしれない。消費者としての利便性が高まるというメリットに加えて、おそらくは工場と違って、海外に移転する、という心配も少ない。小売業がアマゾンの普及で淘汰されることと、ジャスコが広がることを比べれば、現地の雇用という観点からは、ジャスコを積極的に誘致するべきなのかもしれない。

 

 しかし、ジャスコのモールで新しいイノベーションの余地はあるのだろうか。

 もちろん、幕張のジャスコジャスコ本社のおひざ元で、あそこにはイノベーションが起き続けるのかもしれない。本社の経営が悪化して身売りでもしない限り、常に新しいアイディアを導入して、モールそのものの存在価値も高まり、雇用も維持され続けるだろう。

 

 でも、地方都市ではどうなのか。 

 

 二十歳そこそこの洋服好きな若者がジャスコのテナントでアルバイトをはじめて、何年後かに彼が自分の発想で独立店舗や、独自ブランドを展開できる日が来るのだろうか。

 

 もちろん、ジャスコ側が今後の事業展開として、そういう若者の創業支援の領域までコミットする、というのも十分、ありうる。

 実際、これまでは全国の地方都市で伸びかけてきた新ブランドをテナントとして導入し、それを起点として、全国展開させる、という手法を使ってきているようだけど、自分たちが、新ブランド育成の場である地方都市の競争力を削いでいる以上、一定レベルまで育った後の新しいブランドを収奪する構造も長くは続かない。

 

 今回の幕張では、いくつか通常よりもフロア面積が小さめで、それほど名の知られていないブランドも入居しているように見えた。それでも、まったくのゼロからではなく、ある程度、どこかで実績を積んだ人たちだとは思うが、今後は新しいコンテンツの更新手法として、テナントで働く意欲的な若者たちのゼロからの創業や、テナント企業の企業内創業を支援する、という手法はなくはないと思われる。

 

 ただ、それにしてもジャスコのコンセプトに合致したショップ、という縛りは生まれる。

 もちろん、ジャスコ側も商売なので、客の購買行動を読んで、売れそうな店を選定するのだろうけれど、人間の分析と、市場での自然淘汰のどちらがより多様で持続可能な選択をしていくか、というと、やはりジャスコにどこまでできるか、その限界はあると思う。

 

 そういったことを考えると、ある都市が活力を維持し続けるためには、初めは地産地消型の事業からかもしれないけれど、若い人たちが自分独自の仕事を創業できるような、個人レベルの仕事をスタートできるような環境を都市内に維持しつづけられるかどうかが、その都市の存在価値を決定づけるのではないか、と思った。

 隣町にジャスコが出てきたとき、ちゃんと自立して商売できる環境を残せるかどうかが。