死ぬときに後悔すること
ちょっと古い、2012年の記事なのだけど、終末ケアをしてきた女性看護師(?)のブロニー・ウェアさんが多くの患者を看取ってきた中で、最期にありがちな後悔を紹介し、後悔しない人生を送るためには、という記事(英文)。
どうやら、その後、本にもなって日本語版も出ているらしいです。
で、5つの代表的な後悔。
1. I wish I'd had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.
(自分に正直な人生を送る勇気がほしかった。他人が自分に期待する人生ではなくて)
2. I wish I didn't work so hard.
(あんなに働きづめにならなければよかった)
3. I wish I'd had the courage to express my feelings.
(自分の感情を表現する勇気がほしかった)
4. I wish I had stayed in touch with my friends.
(友達と連絡を取り続ければよかった)
5. I wish that I had let myself be happier.
(自分をもっと幸せにしてあげればよかった)
以上。
この記事のマトメでも、元々、この記事に行き当たった元の記事でも、言及しているのが、これらの後悔がすべて、言ってみれば、何かを選択し、行動した結果の後悔ではなくて、選択せず、行動しなかった結果の後悔ばかり、ということ。
この辺りが非常にアメリカ的で、やっぱり、アメリカの、特に人の支持を集めるような英雄的な価値観と言うのは、行動によって、あるいは意志の力によって、未来は切り開ける、という概念に基づいているんだろうな、と思う訳です。
僕なんかは、浄土真宗の門徒なので、個人の努力など無意味で、すべては阿弥陀如来の慈悲にすがるしかない、と思っているのですが。
阿弥陀如来はもともと、2世紀のインドで崇拝され始めた如来で、ゾロアスター教または、その影響を受けたミトラ教からの影響を指摘されていて、その点において、ユダヤ教、キリスト教とも通ずるものがある、と指摘する人もいるようです。
人知を超えた、絶対的な力を想定して、そこに人格を与える運命論、終末論、というのは、確かに共通するようにも思います。
ただ、我々が、人生が上手く行かないとき、大いなる力の存在(それを神と呼ぶか、運と呼ぶかはともかくとして)を受け入れて、諦めるのに対して、ああいう思想の人たちは、今こそ、神が与えたもうた試練であり、これこそ神に愛されている証左であり、これを意志の力で乗り越えねばならない、とか考えるんだろうな、とか思うと、これは勝てんなー、という思いに至る次第。
そういう姿勢が正しいかどうか、と言う、優劣や善悪で言えば、今、中東で起きていることや、今後、中国で起こるかもしれないことは、そういった思想への反発も含んでいるのだと思いますが、ただ、それはそれとして、彼らの物事を前に推し進める力に、では、どうやって、立ち向かっていくの? と考えると、中々、明確な対立軸を作り出すことは難しいのではないか、と思うのですよ。
ただ、1つ言えることは、アメリカで定期的にこういうエッセイが書かれ、もてはやされる、と言うことは、多くのアメリカ人も、こういう生き方に憧れてはいるものの、実際には、ほど遠い生活を送っている人が大半なのだろう、とも思う訳ですが。