日本人、それも市役所職員にリーダーシップって必要なんですかね?
仕事の研修でリーダーシップ関係の本を3冊読んだのだけど、読んでて思った疑問は、以下の3点。
(1)本当にそのようなリーダーシップ人材は達成可能な目標なのか/目指すべきなのか
(2)日本人においても、1個人が達成できるのか/目指すべきなのか
(3)日本の地方行政の職員にも求められる資質なのか
読んだ本は、下記の3冊。
- 作者: 伊賀泰代
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2012/11/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 作者: スティーブン・R・コヴィー,フランクリン・コヴィー・ジャパン
- 出版社/メーカー: キングベアー出版
- 発売日: 2013/08/30
- メディア: ハードカバー
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- 作者: マーティ・リンスキー,ロナルド・A・ハイフェッツ,竹中平蔵
- 出版社/メーカー: ファーストプレス
- 発売日: 2007/11/08
- メディア: 単行本
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いずれも典型的な北米型の価値観に基づく、リーダーシップ論だと感じた。日本語でリーダーと聞くと、いわゆる、牽引役であったり、まとめ役、つまりマネジメント(管理)とかガバナンス(統治)という機能を思い浮かべるけれど、これらの本に共通するリーダーシップとは、変革者、あるいはここ10年の言葉で言えば、イノベーター的な役割を求めている、という印象。
そういうリーダーに必要な要素として、大きく2つの資質が、どの本でも共通して掲げられている。
(1)問題の本質を根本から考えて答えを見つける、という姿勢
(2)見つけた答えをいかにして世界に広げていくか、という姿勢
1番目の問題の本質を探る能力は、いわゆる科学的態度と共通するものだから、科学者の端くれとして、自分は日本人の中では備えている方だと思う。というか、今、市役所で仕事をしていて、他人が表層的な議論に終始するのを見ていると、うんざりすることが、ままある。
ただ、そもそも、日本で、あるいは日本の市役所で問題の発見が重要なのか、とか、冒頭に掲げたような3つの疑問がある。
(1)本当にそのような人材は達成可能な目標なのか/目指すべきなのか
問題の本質を追及する資質と、得られた回答を広げる資質は、両立可能なのだろうか?
人間は本質的には社会性の生き物であって、周囲との融和を尊ぶ存在だと思うんですよね。普通は、周囲と仲良くしたい。でも、その中でも敢えて空気を読まずに、対立を受け入れてでも、本質的な解決を求める人間だけが、問題の表層ではなく、真理に到達できるのじゃないだろか、と。
あるいは、周囲との対決を辞さない人間が、周囲の「空気」に押し負けない、それを突破するための強度を得るためにこそ、自分が拠って立つ漠然とした問題意識から、問題の本質を見極めようとするんじゃないか、とか 。
もちろん、人よりも問題の深い部分を観察しがちな自分の経験から言って、せっかく見つけ出した答えをただの机上の空論から現実に変えていくためには、協力者は必要だし、広げていくときに、正論を力押しで言ってても、しょうがなくて、同意を得るためには、社会性を発揮することも求められる。
逆に、社会の調和を求める人が、みんなと仲良くしたい人が、より大きな調和に達するために、問題を掘り下げることもあるだろうし、偶然、問題の本質に気づいてしまって、それを無視できなくなる、ということはあると思う。
でも、それはどちの場合でも、本質的には異なる特性を持った2種類の人間が、欠けているもう一方の特質を得るために歩みよる、というだけのことで、両立できる人間なんか、いるんですかね。
そして、本当に世の中を変えていくのは、多分、世の中を変えたいと思っている人たちではなく、問題の本質に気付きたくなんかなかったけれど気付いてしまった人たちだったり、あるいは彼らのアイディアに早い段階で共感できた人たちじゃないのか、とか思ったりするんですよね。
だから、リーダーシップを発揮できる人間って、養成しようとして養成できるものなのか。養成すべきものなのか。養成するにしても、異なる2種類のタイプによって、 育て方が違うのではないか。
新しいアイディアを広げていく、というメカニズムについては、そのうち、クレイトン・クリステンセンやジェフリー・ムーアの著作も読んでみたい…というか、先にこれらを買ってあって、まだ読んでないんですが。
イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
- 作者: クレイトン・クリステンセン,玉田俊平太,伊豆原弓
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2001/07
- メディア: 単行本
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(2)日本人においても、1個人が達成できるのか/目指すべきなのか
本質を読み解く能力と社会への影響を広げていく能力は、本質的に異なると思うのだけど、日本人は特に社会との調和を重視する人が多いように思う。
だからこそ、「時には空気を読まずに、水を差す発言を恐れずにやれ」、ということを啓蒙する本は必要なのかもしれない。みんなが、あまりにも空気を読みすぎるから。
でも、基本的に物事の本質を見極める能力が欠落している日本人が中途半端に物事を見ようとすることは、事故のもとじゃないの、とも思う。見極めたつもりになって慢心する、間違ったエリートを輩出するだけ…というか、だから、日本人の中では本質的に考えがちな人間として、そういうタイプの面倒くさい人をこれまでにも見てきたし、そういう浅い議論を得意げに振りかざす人と出会うたびに思うのは、「いいから黙っててくれ」ってことなんですよ。
で、じゃあ、日本人はいつまで経っても本質的な問題発見ができないか、と言ったら、そんなことはなくて、日本、あるいは東アジアにも周囲との調和をよしとしない人材の系譜はある訳で。
老子、荘子、竹林の七賢、杜甫、李白、西行、鴨長明、良寛とか、厭世主義者や世捨て人と呼ばれる人たちは、あるいは各時代の僧侶とか、知識階級の理想的な生き方として、世俗権力との均衡を保つ人たちって、東洋には歴史的、伝統的に存在するじゃん、という。
もちろん1番の議論と一緒で、彼ら(あるいは私たち)は、本質を見極めることに興味が傾きがちで、広げる前に興味を失うこともままあるので、空気を読むのが好きな日本の皆さんに、こういう人間をどう使ってもらうか、ってことは考えた方がよいと思うのだけれど。
もちろん、他人を使う、ということは、別の人格を有する別の個人なので、一人の人間がやるよりも一貫性に欠けるかもしれないし、効率が悪かったり、突破力に欠けたりするかもしれない。
だけれども、今日においては、一人の人間が携われる事業の規模には限界があることを思えば、複数の専門分野にわたる複数のイノベーターを随時、活用することで、リスクを分散した方が、むしろ、現実的な解決策なのかもしれない。
(3)日本の地方行政の職員にも求められる資質なのか
最後の疑問は、市役所職員に必要かどうか、というよりも、民主主義国における政府、特に地方政府の役割って、結局、何なの?っていう話なんですけどね。
日本国憲法を読んでも、地方自治法を読んでも、あるいは地方公務員法まで含めても、街の在り方は住んでいる人たちが決めましょう、地方公務員は決まったことを粛々とこなしましょう、と書いてあるのだよね。
地方公務員に社会的課題を定義し、解法を設定し、実行に移す権限は、ない。あるいは、ない方がよい。
とは言え、社会がこれだけ高度化、複雑化した時代に、住民一人ひとりが本当に街のあるべき姿を定義し、そこに向かう施策を立案、検討できるか、というと現実には、全体としての市民、あるいは市場に解はあるとしても、個々の市民は自分たちの生活を守ることがやっとで、考えるのは難しい部分もある。
その意味では、問題の本質を見つめ、その解決法を広げていくリーダーシップを地方都市の中で、誰かが発揮する必要性は、このような現代だからこそ、極めて高い。
それじゃ、そういう人材バンクとして、地方の市役所が機能すべきなのか?
個人的には、伝統的な朝廷、公家や武家と寺院との関係のように、人材の行き来はあっても、独立した存在であった方がいいと思うんですよね。たとえば、大学とかシンクタンクに在籍する研究者とか。
財政だったり、市場規模の点で、地方都市では長期的課題の調査研究機能を外部に設置することが難しい場合には、まあ、行政職員が課題の研究をすることは、なくはないのか、とも思いますが。
その次の段階として、じゃあ、公務員の職責の中で、本質的な課題の把握に努めたとして、その解法まで示すべきなのか。複数の対立する選択肢を提示し、住民に選ばせる、という民主主義的な手続きが実現できるのか。
個人的には、本当に問題の本質を見極める人間であれば、この課題には、複数の解法があり、Aにはこういう利点とこういう欠点が、Bにはこういう利点とこういう欠点が…といったように提示できるものだと思うので、行政がやってもいいのかもしれない。
ただ…あれらの人たちは本質的な課題設定をしてないだけかもしれませんが、自分の考案した解法の妥当性を疑わない人もよくいるなー、と。
だから、異なる立場の複数人、あるいは複数組織が同時に解法を検討して対立させた方が、選択肢は広がる、という意味で、やっぱり、それは外部機関であるべきなんじゃないか、と。
もちろん、対立させることにも課題はあって、3本の道があるときに、Aは右に、Bは左に、と主張したとき、間を取って誰も主張しない真ん中の道を取ってしまうことはある。
それと、もう1つは、現代の地方行政(あるいは国政でも)の大きな課題は、課題が複雑化して、全体的な課題解決になると生活から乖離が大きくて、有権者が課題解決に興味を失いがち、という点がありますよね。
で、こういう風に、地方公務員がシンクタンクとして、長期的、本質的な課題を設定して、解法を示し、実施すると、ますます住民の行政に対する興味が薄れ、行政は住民の正確な意向を把握しづらくなるんじゃないか、と。決定部分だけを住民にゆだねるとしても、正確に判断できるだけの情報提供ができるのか、と。
まあ、昔のように住民や国県が決めた方針に則って粛々と事務を進める、いわゆる公務員タイプの公務員は、できるだけ機械への置き換えを進めるべきで、必要なくなっていくとは思います。
そうは思いますが、そのとき、日本の市役所に必要なのは、問題の本質を読み解く能力と、それを広げる能力と、 その両方を持つ人と、一体、どういう人を優先すべきなんでしょうかね。
今、市役所に入って9年が経ち、最近、入ってくる若い人たちを見ていると、どうしても、日本の学校教育の中で、与えられた課題をそつなくこなすことに長じるタイプの若手職員が多い気はしています。
となると、現実には、彼らに対して、自分の頭で考えるな、市役所の外にいる本質的に物事を考えている人間の意見を聞きに行け、というのが、正解なのではないかと思います。そして、なるべく市役所の外側で、議論を活発に行えるようにしていきながら、必要な統計情報とかを提供できる、というのが市役所の仕事なのかなー、とか思ったりしたんですが、どうでしょう。
あと、リーダーシップに違和感を持つ理由として、多分、課題の解決は、特定の個人ではなく、すべては市場で、あるいは歴史の時間軸の中で決定すべき、と自分が考えている、という要素も大きくて、その点では、エドマンド・バークや、フリードリヒ・ハイエクの考え方も知るべきなんだろう、とは思いました。