地方活性化のための健全な批判精神と反知性主義
毎度おなじみ木下斉さんによる、地域活性化あるある連載。
今回も、まあ、あるある、な感じではある。
「そんなことないよ!」という人がいたら、その人は地域で具体的に事業に取り組んだことがない傍観者か、コンサル(笑)や専門家(笑)なのではないでしょうか。
とは言え、そうは言っても、「木下さんは、東京のインテリの人だから」、と心の片隅で思ってしまう面もある。
木下さんがこの記事で言おうとしていることを、やや違う角度で受け止めて、ちょっと違う方向でドライヴしていきそうな人の存在が、容易に想像できてしまう、と言うか。
ちょっと違う方向感、と言うのは、いい年齢の人たちが、まるで高校生や大学生の学園祭やサークルのノリで、討死必至なつまらない事業に、貴重なリソースを突っ込んで空費してしまう、ようなパターン。
もちろん、既存の概念に従って動いてきたから、今の衰退した地方がある訳で、冷静なオトナの価値観から評価すれば、やってはならない、と思えるような、新しい何かの可能性を信じて取組んでみる、ということは、地方都市には必要なことなのかもしれません。
ただ、それが容易に反知性主義に結びつく、というのは、決して看過できない、今の日本が抱える闇だと思うのです。
他人を説得するため、という題目を掲げて、事業計画をキチンと紙に書いてみることで自分の事業を客観視し、過不足を眺めて、論理的に対策を立てる、という作業自体は、大変、重要なことだと思うのですが、地方都市では、息を吸うように自然に論理的思考ができる人は、本当に限られているんですよね。
元々、数が少ない上に、貴重な少数エリートの大半は東京の大学に行って、そのまま大企業に就職しちゃうから。
偶然、帰ってきた少数と、学歴エリートではないけれど叩き上げで勘所を抑えた少数でどこまでやれるのか。
もちろん、精緻な計画を作ったところで、どれだけ紙幅を尽くしても説得できない相手はいるし、どれだけ論理的な考察を重ねても、最後はリスクテイクをしなければ前には進めないことも、特に新しいことを起こそう、というときには当然、あります。
計画書づくりそのものが目的となってしまっては、本末転倒です。
でも、それでも、迷わずに、より効率的に目的地へたどりつくための、「旅のしおり」としての事業計画くらいは、あった方がよい。
計画よりも本人のやる気や覚悟だよ!と言ってしまうと、地方都市では、確かに目新しくはあるけれども(まあ、大概、他の街でやったことの焼き直しだけど)、どう考えても上手くいきそうもない、明らかに失敗しそうな危険因子に、何ら対策を打たずにノリだけで走ろうとする人たちが山ほどいるのですよね。
そういう人たちを賞賛する雰囲気ができてしまうと、それに対して賞賛しないことをノリが悪い、頑張っているあの人の足を引っ張るな、と批判するような空気すらもできてしまうもので、それはそれで、気持ち悪いと思うのです。
赤の他人が勝手に取り組むことならば、どうぞご勝手に失敗してください、と、まだ思えるけれども、たとえば、自分が土地のオーナーだったときに、そういうヤバい案件に貸し出せるか、自分ちの近所にヤバい人が移ってきたときに、冷静にやり過ごせるか、むしろ本当に当事者意識を強く持っているならば、「そりゃヤバイんじゃないの?」と言える方が健全ではないか、と思うのです。
比較的、自由を重んじる空気がある、うちの街ですら、若い人が新しいことをやるときには、「本気で大丈夫なんかや、あいつら?」という意見は、たびたび自分も聞かされてきたし、そのときに「うーん、任せてみるしかないんじゃないでしょうか」と答えられる案件ばかりではなく、「いやー、ヤバイと思うんですよねー」と答えてしまう案件だって、確実に山ほどありましたよ。
東京と地方の差があるのだとしたら、新しい物事に意見を言うか言わないか、ではなく、そういう異論や疑念が、直接、当事者の耳に入ってくるかどうか、の差ではないか、と思うのです。
あるいは当事者本人は、そういう親切な批判を「So fxxkin' what?」で流して、自分の計画を押し通せたとしても、彼/彼女を支援しようとした第3者が、地元有力者の顔色や全体の空気をうかがって自粛してしまう。
そういう意味では、地方都市で何か新しいことを始めるときには、いきなり協力者の支援や、公共の許認可が必要な、大きなプロジェクトに手を付けるのではなく、自分の身の丈にあった、自分一人(か本当に信頼できる小規模なチーム)だけで、民間の私企業の責任で賄える、小さなプロジェクトから始めて、実績を積み上げ、信頼を勝ち得ていくしかないのだろう、と思った次第です。