aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

新国立競技場問題と、成熟した民主主義社会における行政の意思決定

 新国立競技場問題は、ザハ・ハディド案に決定以降、何かしらずっとモメてる、というくらいの認識しか持ってなくて、なんで、あんなにモメてるのか、さっぱり分からないし、分かるための情報収集とかもコレといってしてないのですが。

 

 ただ、東京に(東京オリンピックに)シンボリックな建物が必要かどうか、という議論と、それを国や都の金で建設すべきかどうか、という議論は、分けて考えるべきではないか、と思う次第。

 後者の問題は、さらに、今日のタイトルでもある、そもそも国や都に、そういったシンボリックな建物を建てるプロセスを管理できる能力があるのかどうか、所属する個人の資質の問題ではなく、現代社会において対応できる組織なのかどうか。

 

 一つには、日本の行政組織は、年功序列型制度の採用をはじめとして、前例踏襲型、保守型、安定型の組織であるため、新しい価値を生み出すことには適していない、と思うんですよね。

 そして、人は自分の知っている範囲内でしか物事を考えることができず、まだ見ないものの価値を評価することは極めて難しいために、そもそも成熟した民主主義社会においては、民意に基づいて動くべき行政組織が新しい価値を提示できるのかどうか。

 この辺りは、一方で、行政職員の専門性、プロフェッショナリズムをどう考えるのか、民意は行政に何を附託するのか、という部分や、本当の意味でのPublic Relationをどう考えるか、で解決できそうな気もするのですが、政治家でも行政職員でも、そこを真剣に考えている人は、あまりいなそうなので、現実、日本では後ろ向きな、小さな政府を志向すべきなのだろう、と思うのです。

 

 となると、成熟した民主主義国である日本では、新しい価値は、市場において淘汰され、選択され、決定されるしかない、と思うんですよ。

 

 つまり、ザハ・ハディド案に対する世論の大まかな傾向は、「そんなに建てたいなら、お前の金でやれ」というところに落ち着くのではないか、と。

 で、実際、3000億くらいだったら、シンジケート組んだりすれば、普通に建てるだけの出資ができる企業もいそうだし。

 

 もちろん、インテリ階層に所属する自分の感触として、日本人のインテリは、いまだにマルクス/レーニン的な共産主義の亡霊に取りつかれているので、金持ちしか行動できない社会でよいのか、とか、一度建ててしまえば社会全体に影響を与えるもの(市民に選択されなかった場合にも、すぐに元に戻せないもの)は個人の自由意思に任せず、事前の調整が必要だ、とかいう発想を捨てるのは、難しいことだと思うんですが。

 

 でも、最初の私の問題提起に立ち返れば、じゃあ、行政は、その事前の調整ができる組織なんですか? 調整機能に課題があると認識し、調整機能を高めるための努力を重ねていますか?

 

 そんなことを今週の木下さんの連載を読んで考えた次第。

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