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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

今さらジェフリー・ムーア「キャズム」読んだよ

 エヴェレット・ロジャースの「普及学」をハイテク業界に当てはめ、普及のフェーズが切り替わるタイミングで陥りがちな溝=キャズムについて解説する、ジェフリー・ムーアの「キャズム」、やっと読み終わった。

キャズム

キャズム

 

 

 元々、この本の存在自体は結構、前から知っていて(多分、リリース前後くらいに)、その後、産業振興担当してた2010年くらいに一度、読もうと思いつつ、結局、買わず、2013年に部署が移って、ライフスタイル提案みたいな仕事をやるようになったので、2013年の秋に買っていたのだけど、それでも中々、手が付かず、今、やっと読み始めて、さすがに事例が古いな、と思ったら、実は2014年秋に、新版が出ていた、というくらいの今さら感。

 

キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論

キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論

 

 

 タイトルがややこしいのだけど、元々、この本、1991年にアメリカで出版され、ハイテク産業を扱っている都合上、収録しているネタが古くなってきたため、99年に事例を全面的に更新した改訂版が出版され、02年にこの改訂版を底本とした初の日本語版が出ているので、今回改めて事例を再構成しなおしたという新版は、日本語タイトルは、ver2になっているけど、実際、第3版。

 で、自分が読んだのは、古い方。

 

 産業振興担当時代に敢えて読もうと思わなかった理由としては、対象がハイテクじゃない、と言うことよりも、地方都市の中小企業の場合、結構、ニッチ戦略で食っていけたりするから。

 たとえば、単価3,000円の商品を年間100万個生産できる企業があったら、単価を小売値と考えても、その企業の卸値での売上は10億くらいいくし、単価を卸値と考えれば30億とか、ウチの市内では立派な企業ですよ。

 でも、年間100万個って、日本国内だけで売ろうと思っても、全人口の1%にも満たない。世帯で1つの商品、と考えても、3%くらい。

 なので、別に日本人全員に認知される必要もないし、海外に市場を求める必要もなく、ひたすら少数とのコミュニケーションを図る、という戦略も充分、成り立つ。

 

 一方で、異動後の部署は、市民全体、それこそ普段、積極的に市の広報紙を読み込んだり、市の事業に手を挙げて参加したりするような人とは違う人たち、知り合いに市議会議員がいたりしないし、自分も市の審議会委員を委嘱されたりしないような人たちに、どう提案していくか、という仕事だったので、この本で言う「キャズム」を乗り越える必要があるかな、と思った次第。

 ま、結局、その仕事をやってる間に読まなかった訳だけど。

 

 ムーアは普及学で言うところの、イノベーター、アーリー・アダプター、アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ、ラガードの5階層をそれぞれ、テクノロジー・マニア、ビジョナリー、実利主義者、保守派、懐疑派、と言い換え、前2つにアピールすればよい「初期市場」と、後者3つに売り込む必要がある「メインストリーム市場」では、全く異なる戦略が必要となることから、その市場の間にある溝(キャズム)に落ち込む危険性がある、と指摘する。

 初期市場は商品の価値そのもの(たとえば技術力の高さや目新しさなど)が理解されれば受け入れられるが、メインストリームの市場はそうではない。着実な成果を約束する必要がある、と。

 

 まあ、本当に読んでいたら、さすがに15年前の事例(特に、Win95リリース以降、めまぐるしく変化するハイテク分野の世界)なので、イマイチ実感を掴めない事例や、これは本当に成功と言えたのか、という事例もあったりして、これは次の版が出て当然、と思った次第。

 読む前に気付いていれば買い直したかもしれないけど、事例が集中して出てくるのは、中盤以降なので、そこまで読んでやっと新版の存在に気付いたので。

 

 とは言え、一方で、特に前半部分、市場の階層構造を解説するあたりを中心にして、マニアとビジョナリー、実利主義者がそれぞれ、どういう行動基準、判断基準を持って商品を選択するのか、という点に関しては、読む前に期待していたとおり、別にハイテク産業に限らず、一般的な普及学の解説書として、興味深い。

 商品やサービスの提供、という視点で書かれているけれど、政策の提案、あるいは価値観や人生観の問題意識を明確にしてもらい、選択してもらう、という考え方でも、当てはまる部分は大きい。

 

 個人的には、51%を占めたものが正義、という「51%教」の教義は全く民主主義的ではない(全体主義でしょ)、と昔から、小学校のときから思っているんですよね。

 本当の民主主義とは、基本的人権の尊重に重きがあり、一人ひとりが自由に考え、行動できることに最大の価値があるのだから、多数派が数に物を言わせて少数派を弾圧することは絶対に許せない、と思っているんです。

 たとえば、小学校の学級会とか、小学生くらいだと周りの子供たちより自分の方が明らかに知識の量も広さも論理的思考を積み上げる力も優れていて、ある視点から自分が問題提起をすれば、クラスの議論なんか一瞬で引っくり返せる、という状況を何度も経験してきたから。

 と言うか、ときには、自分としてはどっちでもいいような議論だったりすると、敢えて狙って少数派に付いて(と言うか、主流派の欺瞞を指摘して)、議論を混乱させたりもしていたから。

 

 人がAかBかを決めるとき、あるいはAをするか、しないか、を決めるとき、判断する人たちは、正しく問題を設定して、問題を判断するために必要な情報を正しく集められているのかどうか。

 その正しい判断力を持っていない人たちがいくら集まって議論をし、投票しても、その答えにどれだけ意味があるのか。

 

 もちろん、旧共産圏に憧れる年齢になる前に、その崩壊をリアルタイムで見てきた世代としては、テクノクラートによる独断専行の危険性も承知しているし(歴史&軍事マニアなので、旧軍関係資料もそれなりに読んでいるし)、小学生と違って、自分が常に正しい判断を下せるだけの能力があるとも思えない。

 

 だから、多数決を信奉する人たちが、どうせ誰も正しい答えなんか出せないんだから、たとえ失敗しても、みんなで納得できるように、とりあえず多数派の意見を採択しよう、と思って多数決を信じるなら、それはそれで1つの考え方だとは思うんです。

 多数派の意見であっても間違うことはあるので、上手く行かなくなったら、また投票して、変更をかければよい、と思っているなら。

 ただ、世の中には、多数派が支持することなんだから、間違っていないんだろう、赤信号みんなで渡れば怖くない、と言うか、自分だけ渡らない方が怖い、という発想が、どうにも根強い、と少なくとも自分の目には映ってしまう。

 

 話が大きくずれてきましたが、「キャズム」に戻る。

 何か新しい物事を起こすとき、これまでのやり方を改めるとき、本当に51%の多数派は、その解決策を理解しているのか。

 何か新しいAかBかを選ぶのであれば、それぞれの意味を明確に説明し、同意を得るべきではないのか。

 多数派が理解しない上での投票に意味があるのか。あるいは、その投票の意味を(責任は共有するという消極的選択だと)みんなが理解しているのか。

 

 51%教の人たちは、きっとそう思っていない。

 多数派が選んだものは常に正しいと思っている。

 

 だから、民主主義国の政治は、新しいことを正しく始めることなどできないし、むしろ正しく始められず、修正もできないのなら、政治は新しいことに手を付けるべきではない。

 少なくとも、自分たちが政治の、社会問題のプロフェッショナルとして、有権者に課題を明確に提示し、同意を取り付ける、という意思がない集団なのであれば。

 本当に世の中を変える新しいことは市場の中で実験され、確実に社会に貢献する、という実感を51%の人たちが持った段階で(それは、つまり、もはや新しいことではなく、標準化されつつある取組として)、政治に移すべきではないのか。

 

 そう思ったのも市役所を辞めた理由の1つなので、この本を買ってすぐ読んでいれば、もっと早く辞めたかもしれません。

 辞めた後で読んで、あの組織は口で何と言おうが自分に向いてる組織じゃないと改めて思いましたが。