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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

大組織の限界と組織で生きるリスクの件で

 今朝、中央大教授の竹内健さん(@kentakeuchi2003)が紹介していた東洋経済の記事3本。

 

toyokeizai.net

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 1番目のシリコンバレーうんぬんの記事は、ふーんと思いながら読んだけど、3ページめくらいで挫折した。なんか、自分には関係ない世界の話だな、と。

 

 2つめの木下さん(@shoutengai)の記事は、普段から木下さんが言及していることで、新しい事業を起こすときに、合意形成を重視してると、結局、何も前に進まない、という。

 この辺は、エヴェレット・ロジャースの普及学や、ピーター・ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」とかでもそうですが、まず、そもそも基本的に新しいこと、と言うのは、他人に理解されないものなんですよね。

 特に、地域の中を変えていく事業の場合、現状、何かしら上手く行ってないことがあって、それを上手く行ってない、と否定して課題を明確にしない限り、解決なんかしないので、これまで地域で一生懸命やってきた当事者の人たちは、中々、合意しにくい。

 いや、本人は意外とそれが問題だって気づいてたりするんだけど。特に、地域の集まりに出てくるような、会の長をやってるような人たちは、それなりに優秀だったりするので。

 

 ただ、難しいのは、市役所主導でプロジェクトチームを立ち上げたりすると、だいたいが能力や意欲ではなく、○○組合の組合長とかに、いわゆる「当て職」で出席を依頼するので、あんまりいい会議にはならないですよね、経験上。

 1つには、その組合の事業領域としては、当該プロジェクトに関連するんだけど、そもそも組合の設立趣旨とプロジェクトの目的が合致してない場合。あるいは戦後、長い時間が経つ中で、そもそも設立趣旨自体が形骸化してたり、時代に合わなくなってたり、組合員も訳も分からず加盟してるだけだったりするのだけど、単純にその業界の過半数を占めてるから、声を掛けざるを得ない団体。

 もう1つは、前述のとおり、組合長さんはそれにふさわしい力量、見識を持って業界全体の将来を憂いているのだけど、一消費者、一市民としての自分の見解、経営者としての見解、業界全体の代表者としての見解には、矛盾があって、会に呼ばれたときに、どのポジションで発言していいか迷ってしまって、当たり障りのない意見しか言わないケース。

 で、こういう人たちを前に、市役所の若造や外部のアドバイザーが、本質を突くことを言うと、自覚がある人たちでも(自覚がある人たちだから?)、まあ、面白くはない、と思うんですよ。

 

 自分の経験で言えば、既存事業を大きく変えて、新しいものにしていくときには、既存事業に関わってた人たちの中でも、やる気のある人たちだけを選んで、それから、今まで関わってなかった人たちの中で使えそうな人たちを巻き込んで、新しいチームを立ち上げるのがいいんだと思います。

 

だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。

 

だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

マタイによる福音書(口語訳) - Wikisource

 

 もちろん、小さなチームをバラバラと立ち上げると、ムダが多いので、チーム同士の緩やかな連携を図るべきだし、常に間口を広くして、やりたい人が入ってきやすい状態であったり、外部の有力者にも何をやっているのか見える状態をつくっていくことは大事かなー、と思うのですが。

 ※外部の有力者に見えるようにしておくのだから、批判はされるでしょうが、批判されたときに、「それは分かっててやってるので気にしない」という部分と、「なるほど、そういう見方もあるか」という部分の整理を上手くやっていく必要があるんだろう、と思います。

 

 それから、民主主義社会の地方政府たる市役所が、本当に住民合意を得ないで新しい事業をやっていいのか、という部分はあります。

 その点については、個人的には、1つのやり方として、ごく小さなプロジェクトは、あくまで民間のやる気のある人たちに提案するか、彼らの提案を受けて、民間のプロジェクトを市が支援する形で進める。資金的な支援もそうですが、そのプロジェクトが回っていく段階で、有力者に事業の趣旨を説明し、説得していく、と言うのも市役所の仕事ではないかと思います。

 説得すべき有力者というのは、当て職の有力者もそうですし、主婦グループの拡声器的な、表向き役職を持っていないけど影響力のある人の両方に対して。

 訳の分からない市民が勝手にやっているのではなく、市役所が、論理的に説明してくれる、ということは、市民の理解を得る上で、有力な手法なんですよね、やっぱり。

 

 もう1つは、本当に大きいプロジェクトの場合は、それは市議会や広報紙のような正当なルートと、有力者ネットワークへの個別の説得を通じて、本当の意味で住民合意を形成していく、ということも必要かと思います。

 ただ、後者は今の時代、すごく難しくて、やはり小さなプロジェクトで結果を出して、信頼を積み上げながら徐々に大きくしていくしかないのだと思います。

 

 だから、事実上、市役所は新しい事業の可能性について調査し、提案することはできても、民間の動きを優先すべきで、市が前に立って新しいことを起こすのは、違うかなー、と。そう思ったのは、市役所を辞めた理由の1つですかね。

 

 木下さんのこの本も、そのうち買うつもり。

稼ぐまちが地方を変える―誰も言わなかった10の鉄則 (NHK出版新書 460)
 

 

 3番目のサッカーの記事については、要するにゲームのルールをどう理解するか、ということだと思います。

 当たり前ですが、市役所の人たちはルールに忠実な人たちが多いんですよね。

 けど、もし、ルールどおりにゲーム運びをするのが自分(たち)にとって不利ならば、そのルールを変える努力をするよりも、ルールの解釈を変えてみて、ルールから逸脱しない範囲で、オーソドックスではない、邪道かもしれないけれど、結果につながるゲーム運びを試みる、とか、そもそも、そのゲームからは降りて、別の土俵を作るかしたら、いいんじゃないの? と思ったり。

 相手の土俵に乗るのではなく、自分たちが戦いやすい土俵を作り、相手をその上に引きずり出す、と言うのは、ビジネスの場合、当たり前のことだと思うのですが、大きい組織の中で出世する優秀な人と言うのは、まあ、そういう発想はしないんでしょうね。

 

 一方、冒頭の竹内さん自身が今日、日経テクノロジー・オンラインに掲載していたコラムも、そういう視点かと思いました。

techon.nikkeibp.co.jp

 

 組織に求められる結果を出すのは当たり前として、組織が求める結果を効率的に出すためにスキルを磨くことが自分にとっての幸せなのか? 結果を出せるのならば、余裕の部分は、それをより磨くよりも、たとえ組織内で正当に評価されないスキルであっても、自分の他の資質を磨いた方がよいのではないか。

 

 市役所に関しては、何だかんだ言って、夕張のようにリストラされたり、会社そのものが吹っ飛ぶ心配は、まずしなくてよいと思います。一生、給料と年金だけを周辺の市民と比べれば、大過なく生活はしていける、と思います。

 

 ただ、定年まで仕事があって、ある程度の退職金と年金が支給されて、それで幸せなんでしょうかね?

 今の時代、日本人は、60歳で定年した後も、もう20年くらいは平均で生きていくのに、生活に困らない貯蓄があるから悠悠自適の生活を遅れて、それで幸せなんでしょうか?