aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

これからの市役所の人に考えてほしいこと。機械技術の進展と人間の役割について

 なんで市役所を最終的に辞めることにしたのか、というと、「市役所がやりたいこと」と「自分がやりたいこと」がある程度は一致していると思っていたのに(少なくとも齟齬があっても調整可能な範囲で)、彼らがそれをやりたいと言ってるだけで、全然、やる気がない、あるいは、本当はやりたいのかもしれないけど、どうやってやればいいか分かってないし、分かるための努力もしてない、だから、一緒にやれることはないですね、という話。

 じゃあ、やるべきことって具体的に、どういうこと? どうすればできるようになるの? ってなると、いくつかの事象が複雑に絡んでいて、自分の中でも、どれが原因でどれが結果なのか、いまいち整理できていない部分もあって、この1か月、書きあぐねてた。

 自分は辞めてしまったし、一人の市民としてはそこは市役所に頼らず生きればよい、と思っているので、別にそこを究明する義務もあまりないし。

 

 ただ、書いておくと、1つには、今、市役所に残っている人たちや、これから市役所に入る人たちが仕事をする上で、どういう視点を持つべきか、という参考にはなると思う。あるいは自分と同じような辞める時の判断基準の参考として。老婆心ながら。

 また、自分が次の仕事をやるに当たっても、1つの行動基準にはなると思う。

 それから、一人の市民としても、市役所に何を期待すべきか、何を期待すべきではないか、地元の市役所が期待できる存在なのか、遠ざけるべきなのか、を判断する基準にもなる。

 

 と言う訳で、いくつかの要素について、まだ、整理できていないのだけど、こないだネットで見かけた記事が、そのうちの1つに言及しており、大事な論点を含んでいたので、引用しておく。

business.nikkeibp.co.jp

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 1997年以降、デジタル技術の発展で、アメリカでは急速に産業が発展し、経済成長をしている一方で、職を失う人も増えている。これまでは経済成長すれば、やがて雇用につながると思われていたのに、この20年、差は広がる一方なのは、なぜか。

 新しい技術が古い技能を、しかも従来の技術とは違って、広範に大量に奪っているから。

 

 もちろん、この成長がシンギュラリティに至って、機械が人類を支配する「ターミネーター」のような世界になる、なんてことはない。

tjo.hatenablog.com

 

 要は、これからの市役所職員は、機械に任せるべき仕事と、人間がやるべき仕事、人間でなければできない仕事の違いを考える必要がある。

 それは行政の職員として市民の生活を想像する、という要素よりも、市役所の仕事そのもののの大半が不要になっていくから。

 自分たちが今、やっている仕事は、やがて不要になる。つまりは、自分たちの存在そのものが。

 

 この点について、はっきり言って、市役所の中で真面目に考えている人に、ほとんど出くわしたことがなかった。

 もちろん、自分の出自が、市役所職員として特殊な部分はある。

 自分は95年秋にWindows95がリリースされた翌春の96年に大学の機械工学科に入学した。産業革命以来、200年にわたって世界を変えてきたのは機械工学だったけれど(20世紀以降は電気工学、そして通信の重要性も高まるけれど)、今、世界を変える技術がネットに移ろうとしている。じゃあ、今までどう変わってきて、これからどう変わっていくのか、ということを考える機会は、在学中にも、そこそこあった。

 しかも、その前年に事件を起こしたオウム真理教の幹部も複数輩出していた大学だったので、科学技術と社会の関わり、みたいな考え方にも触れる機会もあったし、在学中にアシモやアイボを生んだ何度目かのロボットブームもあって、人と機械の違い、について考える機会もあった。

 

 とは言え、今、市役所の50代の人たちを見ていたら、入庁当時から電卓、あるいはファクシミリくらいはあったかもしれないけれど、その後、ワープロ、メール、表計算ソフト、携帯電話の登場で、自分たちの仕事がどれだけ変わったか、考えませんか?

 入庁当時の自分たちに期待された職能が、どれだけ機械化され、省力化されているか気になりませんか?

 だったら、本当にその職員数、その給与水準が必要ですか?

 

※こう考えると、意外にも若い職員の方が比較すべき昔を知らないために、未来についての想像力にも欠けるのかも、とか今、書いていて若干、危惧した。

 

 もちろん、市役所の大きな枠組みとして、終身雇用と年功序列という制度がある。しかも、新しい技術に対応していくためには、若い職員も一定数、採用していく必要がある。

 

 であれば、明らかに市役所が取るべき方針は、省力化に合わせた職員数の削減だけではなく、新しい仕事を創っていくことになる。

 と言うか、どこで見かけたのか失念したので、原典を引用できないけど、別に中世から官僚たちというのは、自分たちの仕事を増やすのが仕事、という側面があるので、ほうっておいても仕事は創る。

 そもそも、今の若い人たちは、オフィス・オートメーション(OA)て言葉すら知らないんだろうけど、それを経ても市役所の職員数がそんなに減っていなさそうなので、今後も維持はしていくはず。

 

 それでは、今、あなたたちが新しく創る仕事というのは、本当に市民に必要とされる仕事なんでしょうかね?

 科学技術が進み、機械が台頭する社会の中で、市民に必要とされることとは何で、それを市役所の中で機械ではない人間がやるとき、いったい、どういう職員、どういう資質、どういう価値観、どういう考え方が必要とされるのか。

 それは地方自治法を制定した時代、定年間近の職員が入庁した時代の職員像と比べて、何が変わらず、何が違うのか。利害は対立しないのか。

 古い職員に欠けているとしたら、日々の意識づけや講習によって対応可能なのか、それらの人材を伸ばすような育成制度になっているのか、適材適所の人員配置になっているのか。

 

 僕が出した答えは、少なくとも、この点について、うちの市役所は、少なくとも組織としては全く考えてないし、個人レベルでも自分以外にほとんど気にしている人がいない、ということです。

 あるいは、考えていて、あのレベルの答えにしかならないのなら、無能すぎる。

 

 Win95が出てからの20年で、世の中が大きく変わった、という部分もあれば、まだまだ昔と変わらない部分もあり、ゆるやかな時代の変化の中で、しばらくは変わらずに残る仕事、というのも結局、多くあるのだと思います。

 それから、これは別の論点として稿を改めたいと思いますが、そういう時代の変化を市役所、あるいは市役所職員が積極的に意識し、対応すべきなのか、一番最後からついていけばいいのか、という点もあると思います。

 

 ですので、定年間近の人に限らず、今年の4月に市役所に入ったような若い人でも、後40年くらいは、十分、これまでの仕事の仕方をやり続けても、続けられる可能性は結構、あると思います。

 ただ、平均寿命が80才前後の現代、60才で定年退職して、社会と隔絶した組織で40年間暮らしてきた人が、貯蓄と退職金、年金で、その後20年、悠々自適の余生を送れるのでしょうか?

 そもそもが現役中から、1週間7日×24時間=168時間のうち、週5日×8時間=40時間”以外”の時間をそれで対応できるのでしょうか?

 たった40時間、しかし一番、労力を傾ける貴重な40時間の使い方が…まあ、それでいいって人はいいだろけど、少なくとも、俺は市民として、そいつらの時給は上から下まで最低賃金くらいしか払いたくないと思うんですよ。