aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

確かにこれはよく分からん/広井良典「コミュニティを問い直す」

  とある人が、「前半は考え方の整理に役立ったけど、後半になんで哲学とか出てくるのか、よく分からんし、結局、この人がどういうコミュニティを理想的だと思ってるのか、よく分からん」と言ってた本。

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)

 

 

 やっと読んだ。

 

 で、タイトルの感想に至る。。。

 

 いや、著者に好意的に評価するならば、著者の主張は、多分、以下のような感じ。

 

 この100年くらいの間に、日本の社会は農村社会から都市社会に変貌を遂げてきた。しかし、実際には、イエ的な会社(職場)がムラを代替して、農村社会が温存されてきたのだけれど、いよいよ、その会社組織も破綻してきて、本当の都市社会が必要とされている。

 そのとき、欧米型の都市社会は、日本にはあまりうまくなじまないのかもしれない。

 ところで、農村から都市への人口移動というのは、今に始まったことではなくて、大きな波は紀元前5世紀頃にも起きていた。そして、その時代には、ギリシアではソクラテスプラトンバビロニアではユダヤ人のバビロン捕囚期のレビたち、インドではゴータマ・シッダータ、中国では孔子などの諸子百家、と現代まで続く偉大な思想家が活躍し、思想が確立した時代でもあった。

 これは社会変化の中で、都市的な人間関係を構築することが重要な課題として認識された時代であり、その課題に対する回答だったのではないか。

 特に、これからの社会では、西洋的な哲学ではなく、東洋的な思想によって、乗り越えていくべきではないか。

 

 …まあ、そんな感じで、個人的には理解しました。

 ただ、確かに、後半の哲学の話が出てくる部分は唐突だし、あんまり、まとまっているとも思えない。編集担当も意味が分からなくて放置したんではないか、という、くらい、まとまりに欠ける。

 そして、冒頭の感想を述べた人と同様、その東洋的な思想に基づく新しい社会の在り方とは、結局、何なのか、非常に尻切れトンボな感じで終わってしまう。

 

 一方、冒頭の感想を述べた人が、本当に哲学が出てくる意味が分からん、と言ってるなら、それはそれでヤバイと思う。

 今、うちの会社にいて、本当に組織の問題だと思うのは、確かに農村的なムラ社会の欠点のように思う。終身雇用、年功序列の組織の中で、長期的な人間関係を配慮して、誰も合理的な行動を取ろうとしない。みんな威張ってる年寄りがクズだと思ってるのに、その老害に反抗せず、粛々とムダな業務を行っている。

 

 農村と都市的な社会の最大の違いは、流動性や選択可能性にあるのだろう。それは多様性を生む。そのとき、自分と人の違いをどのように捉え、自分とは違う他者をどのように受け止めるのか、というのは、まさに哲学の領域ではある。

 

 日本人が大好きな、「人類みな兄弟」という博愛主義は、裏返せば、兄弟じゃないヤツは人間ではない、ということだ。

 昨今の東アジア諸国に対する人種差別的風潮に限らず、日本では少しでもアウトサイダーとして生きていこうと思えば、そういう「空気」には、いつでも触れることができる。

 

 ここから先は、社会学者よりは哲学者の領域なのだろう、とも思う。

 

 なお、結論以外にも、著者の分析も浅いのでは、と思うのは、たとえば、ムラ社会を会社が継承してきた、のならば、専業主婦たちはどこにどうコミットしていたのか(あくまで夫を通じて会社に帰属していたのか)という論考、調査が浅いように思う。

 また、紀元前5世紀には、少数ながら世界に都市的な集落が形成されたのと同様、日本国内にも、戦国期の堺のような自由都市は形成されている。少なくとも、うちの街は、17世紀初頭に取り潰しとなって、幕府直轄領の後、100kmくらい離れた藩の飛び地となり、事実上、商人と職人による独立都市として、400年間の歴史をつむいできた。自分自身は、明治から戦前戦後の都市化時代に、祖父母が周辺集落から移住して、ようやく3代目でしかないけれど、本当に今の職場に入って、ムラ社会を見て、驚いているくらいだ。

 

 人類みな兄弟、的な思想に疑問を持ち、他者とは違う自分、自分とは違う他者を意識し、どう折り合いをつけていくのか、というのは、今後の社会の在り方を考えていく上で、ある意味、最も重要な課題なのだろう、と思われる。