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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

Who Killed Cock Robin.../増田寛也編著「地方消滅」(その2)

 

 

 前回からの続きです。

 先方の論考が底が浅い、という指摘をするのに、こちらの論もしっかりと組み立てられている訳ではないのですが、この本を読んでから、さらには前回の投稿からも、本稿の書き始めからも日が開いてしまったので、今一つ、まとまりに欠ける構成となっていますが、一旦、投下します。

 

 同著の「人口減少が進む日本の原因は、地方から東京に若者の流入が続く中で、東京は子供を産み育てにくい環境であることであり、この流れを逆行させるべきだ」、という主張に対し、前回は、人口が減るメカニズムはそうだとしても、それなら東京や東京郊外で子供を産み育てやすい環境にする方が現実的じゃないの? という素朴な疑問を示しました。

 

 今回は、前回の東京一極集中に対して、地方分散の方から考えてみたい、と思います。本当に地方は消滅してしまうのか、そして本書で地方都市消滅の回避策として掲げられている諸施策が本当に消滅回避に有効なのか。

 

 まず、本書で指摘する、地方都市消滅、というのが、どういう状態を指しているのか、読めば読むほど理解できない。本当に人っ子一人、住まないような廃墟群が生まれるイメージで、地方消滅を捉えればよいのでしょうか?

 増田氏の最初の主張を聞いたとき、思い出したのは、2007年に一大ブームとなった「限界集落」のことです。若者の流出が続く、農山村や離島の漁村では、高齢者だけが取り残され、やがて集落が消滅してしまう。集落存続のためには、若者を呼び出す活性化策が必要だ、ということが当時、盛んに叫ばれていました。

 今回は、農山村から、もう少し手広く、地方都市にまで範囲を広げていますが、主張が重なるように思います。

 では、あれから7年経って、つまり、限界集落に暮らす高齢者たちは、7歳年齢を重ねて、日本全国で一体、どれだけの集落が消滅したのでしょうか。

 

  山下祐介氏の2011年の著作「限界集落の真実」では、実際に消滅した集落など、ほとんどない、と言います。

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

 

 

 そもそも農山漁村の過疎問題は、高度経済成長の中で、1次産業の雇用人口が相対的に低くなり、団塊世代が職を求めて、大量に都市部(ここで言う都市は、東京等に限らず、全国の中小都市を含む)へ流出した時代から叫ばれていたのだ、と。その当時から、実際に消滅に至った少数の集落の実状は、行政主導による道路敷設やダム建設等の公共工事による集団移転が大半である、といいます。

 また、若者が近隣の都市部に働きに出かけ、そのまま都市住民となった場合にも、親や親族だけでなく近隣住民も挙家離村して、その若者たちが暮らす都市部の一定エリア内に近接して移住し、新しくコミュニティを継続させるパターンもある、と言います。

 しかし、多くの場合は、若者が近隣都市に移っても、都市から若者が定期的に親の下に通ったり、あるいは、親が亡くなった後も家屋や土地の管理のために定期的に集落に出入りしており、決して「消滅」とは呼べない状況だ、と主張します。

 もはや数軒の家しか残っておらず、祭祀や伝統芸能など、いわゆる集落としての機能を維持できていないとしても、それでも、人はそこに住み、普通の生活を続けるのだ、と。

 

 もちろん、山下氏も、団塊世代、という日本の歴史上、極めて特異な人口構造を持つ世代に注目して分析しており、調査の中心時期となった、2000年代の後半では、まだ団塊世代の上の戦前生まれ世代が、集落の長老として、集落維持の活動を行っている、との指摘もあります。

 それから時間が経ち、これから団塊世代ですらも、支えられる側に回るときに、農山漁村の人口減少は一層、進むことは間違いないでしょう。

 山下氏らが取り組んだ農山漁村の活性化策についても、実効性については楽観的に見ても、厳しいものがあります。それでも、直視すべき現実は、その村で暮らす人たちは、おそらく、そこに住み続けるのだ、ということではないでしょうか。

 単なる統計上の全国一律の傾向ではなく、高齢化が住む過疎の村の現実的な実態として、この分野に興味がある人であれば、山下氏の研究は、増田氏のものよりも、はるかに読む意義がある、と思われました。

 

   ※   ※   ※

 

 あるいは、増田氏が主張する地方の消滅とは、文字通りのゴーストタウンのことを指すのではなく、夕張市のような財政破たんにより、行政運営が困難を極め、また民間の活力も失われていく状況を指しているのかもしれません。

 

 ただ、昭和ではあるまいし、いまどき、人口の少ない都市で、体育館や文化ホールのような商圏人口を無視した巨大施設を建設することが、街の発展に資すると考えているような、首長や議員、役所幹部など、少数派ではないのでしょうか。

 そのごく少数の不見識な人たちを啓発するために、この本を書き、諸会議で発言をして、国策を誘導しようとしているのでしょうか。

 むしろ、今回の主張の中では、一定規模の中核都市に、それらの施設を今、この機会に集中的に再整備をすべき、といった意見にも見えてきて、設備投資を逆方向に振れさせる危険性すら感じてしまいます。

 

 増田氏の主張する消滅都市は何なのでしょう?

 

 疑問に思うのは、小泉進次郎氏を交えた女川町長との鼎談です。

 談話中にも石巻圏、あるいは仙台圏の中での女川という発言が見られますが、その中で女川が独立した町として存続できるのか、存続を目指すべきなのか、国策として存続を目指させるべきなのか。

 確かに、震災と津波によって甚大な被害を受け、将来を見据えた新しい街づくりに着手している、という点では、先駆的な自治体なのかもしれません。

 しかし、その際に、女川原子力発電所の運転再開が不透明な中で、その点をどのように捉えて計画を進めているのか、少なくとも、本書では言及がありません。福島の原発事故を巡っては、原発立地自治体に対して、毎年、国庫から多額の支出負担があることが指摘されましたが、それに加えて、単純に、電力会社による維持管理コストを含めた投資、雇用の存在を見ても、原発は立地自治体にとって重要な産業のはずです。

 本書に掲載の地図を見ても、町の東側で太平洋に接し、残る三方を石巻市に囲まれた女川町の立地は、どうして平成の合併で石巻市と合併しなかったのか、一見、不自然に見えます。もちろん、山がちな地形や海などによって、石巻市とは交通が途絶され、文化圏も異なっているのかもしれません。それでも、原子力発電所という外貨獲得施設がなくとも、本当に平成の大合併すら独立を保てた町だったのか。交通の途絶などが障害なのであれば、今ここに至っても石巻圏、仙台圏などという発想に至らないのではないか。

 

 もちろん、このまま原発の運転停止状態が継続されたり、廃炉に向けた作業が本格化しても、当分の間は、それらの維持管理関係の投資は継続されるのだろうし、国による補償も行われるのかもしれません。

  ただ、その何も生まない施設への投資は、ごく乱暴に考えてしまえば、高齢者が増加する都市に対する年金や医療費、あるいは生活保護費等の社会保障費投下による資金分配と、いったい、何が違うのでしょう。

 

 原発の将来が不透明な女川町であっても、やり方、適正な規模感の設定次第では、今までどおりの暮らしを存続できる、というのであれば、日本全国で本当に消滅危機を迎える自治体がどれだけある、と言うのでしょうか。

 すべての自治体が適切な対応を取れば、一応は暮らし続けることができる、という主張なのでしょうか?

 増田氏の主張する消滅とは、どういう状態を指しているのか。

 

 地方活性化策の部分についても、現時点で成功しているかどうかも分からないし、成功しているとしても他の都市には移植不可能と思える施策が多く掲げられているように読みましたが、詳細の言及は、また機会があれば改めて。 

 

 最後に同著を読んで、現在の(あるいは将来、目標とする)人口規模だけで都市を区分することの危うさを感じました。少なくとも、平成の大合併で露呈したとおり、面積を大幅に拡散して人口だけを増やしても、都市機能の維持を考える上では、商圏人口や都市の密度といった観点が欠けていると、比較の意味がないように思います。

 また、本書では、あまり言及がないように思いますが、都市への人口流出は産業構造の変化だけではなく、交通網の整備も大きな要因として考えられ、その点から行くと、先述の商圏人口の問題とも近接しますが、都市内の移動範囲に加えて、都市間の移動時間、アクセス手段の確保といった視点も、都市分類上、重要なのだろう、と思います。

 そして、独自の発展を遂げられるかどうかは、そこに新しい産業が発生する余地があるかどうか、という視点も必要であり、そのためには新事業に対する商圏人口の確保といった点から、上記2点(人口密度とアクセス)も重要なのですが、チェーン店に支配されたベッドタウンか、地元資本の産業が残存する地域かの違い、創業・経営の風土があるかどうか、ということも大きな違いなのではないでしょうか。 

 

 となると、地方、というときにも、少なくとも下記の5種類は分けて論じるべきではないでしょうか。

 (1)福岡や仙台、札幌などの大くくりでの地方の中核都市(大盤振る舞いする前の政令指定都市クラス?)、(2)東京・大阪・名古屋の郊外都市(通勤等の日常的な移動範囲内と文化・経済の依存性)と、(3)県庁所在地や地方中核都市、その郊外都市、(4)農山漁村、そして最後に、(5)人口規模や隣接大都市へのアクセスだけで判断されたら(2)や(3)あるいは(4)に見なされるのだけど経済的・文化的な独立度を保っている都市。

 

 この分野は、来年度予算が確定する前後まで、それなりに論議を呼びそうなので、本稿で至らない点については、また機会があれば、改めて考えてみたい、と思います。

 増田氏の主張に対して、大きな違和感がある、というところからスタートしているため、反論とするには、では、どういう姿が現実的な解なのか、といったまとまりに欠けていることは、十分、承知しているのですが。