aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

流れゆく 水に玉なす うたかたの あはれあだなり この世なりけり

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 高校時代にちょうどブームが来て、「ソフィーの世界」を読んで、古代や中世はともかく、デカルト以降の、つまり近代科学とタモトを分かって以降の西洋哲学は読まなくていいなと思って、以来、全然、読んでいない。

 とは言え、公務員とかやっていると、一応、世の中の流れが今、どういう方向に向かっているかってことを科学技術だけじゃなく、人の心の動き、みたいな視点からも追っておく必要があるかな、とは思ったりもする。個人の意識とか認識とかの哲学ではなく、政治思想史、社会心理学に近い分野での現代思想ユングが言う、集合的無意識、みたいな部分。

ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙

 

 

 そんな訳で、最近、一応、現代思想系の本を読むこともあり、いくつかの社会学系の本で言及されていて読んでみたのが、ジグムント・バウマンの「リキッド・モダニティ」。

リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会

 

 現代社会は、社会の構造が液体のように流動化している、という本。

 911直前の2000年に出版された本、というのが印象的で(日本版は01年6月)、バウマンが旧ユーゴスラヴィアの紛争をひいて指摘している冷戦後の世界とかは、まさに911以降、今に至るまでの世界の動きに重なるところ、と思ったり。 

 

 とは言え、主眼は、紛争以外の全体の構成であって、現代社会を理解する上で、いろいろと考え方を整理するのに役立つと思う。たとえば、SNSの流行とか、数年前に流行しかけて一旦、消えていったノマド・ワークとかも、本書の考え方の延長で理解できるように思えた。ノマドは一時的なブームでぽしゃったけれど、あれとは形を考えて、でも根源的な考え方に共通する要素をもって、もう少し広がるのだろう、と思う。

 

 もっとも、この本そのものがお勧めできるかと言うと、まず、訳の日本語がだいぶ読みづらい。それも、ひょっとすると、原文の読みづらい雰囲気を尊重しているかもしれず、文章全体の構成自体も言い換えや、繰り返しが多くて、大変、読みづらい。前の章で言っていた論旨が、微妙にニュアンスを変えて、後ろの方でまた出てきて、しかも、それぞれの関連性については、あまり詳しく示さないので、論理的にかっちりした構成ではない。

 流動的な現代、ということを敢えて文体でも表現したいのかもしれないが。。。

 

 他の思想家の引用も多く、前述のとおり、現代社会の進む方向を的確に観察している本ではあるので、逆に言えば、同じような趣旨で、もっと読みやすい主張をしている本もあるかもしれない。

 

 で、前置きが長くなりましたが、ここから、やっと本論です。

 

 バウマンの指摘を大雑把にまとめると、近代というのは、一人一人の市民が自由意思を持って、その自由意思を束縛する人類共通の敵、それは特定の権力者や、政治制度であったり、あるいは自然環境や物理法則であったのだけれど、それらの敵に抗うために市民が団結し、打倒してきた時代だ、と。

 ところが、現代社会では、民主主義の浸透であったり、科学技術の発展によって、市民の自由を阻害するものが、なくなってしまった。むしろ、共通の敵を倒すための団結を強要すると、その団結の強要そのものが自由を奪い、新しい敵となる。

 

  革命の時代が終わったとすれば、それは統制デスクがおかれるような建物を体制がつくらなくなったからであり、革命家が突入し、占拠するような体制の象徴がなくなったからである。

 

 では、自由を獲得した人類が幸福になったかと言うと、むしろ不安が増している、とバウマンは説く。

 

 推奨され、強制され、学習された行動様式の単調さ、規則性のおかげで、だいたいの場合、人間はみずからの進むべき道を知ることができる。ときとして、結果がどうなるのか確信がないまま、多くの危険をともなう、まったく道標もついていないような道を、みずからの責任で選ばざるをえない状況もあるかもしれないが、社会的反復やルーチンにしたがうかぎり、こうした状況の到来はまれでしかない。

 

 したがって、現代人は、次々と新しい問題に向き合っては、それを自己責任で対応せざるを得ず、しかも、それを団結して解決に取り組むための共同体も失われている、と。

 

 本文中でバウマンは、では、この不安定で、流動的な社会の中で、人はどう生きるべきなのか、どう社会を変革していくべきなのか、をあまり明確に主張してはいません。

 巻末の翻訳者あとがきでは、バウマンは固定的な近代の復活を望んでいるのだ、というような主張も見られるのですが、少なくとも、2014年に生きる我々の視点からは、それは不可能な主張にしか思えないし、バウマン自身も本文中でそんなことを望んでいるようには読み取れませんでした。

 

 共同体論の復活は、個人の安定とは対極にある状況に反応した結果生じた、ゆりもどし的現象である。

 

 また、ポーランドに生まれて、14才の時にドイツ軍の侵攻を受け、18才でソヴィエト翼賛下のポーランド軍に参加し、その後、共産主義ポーランドで大学教員となった後、国を追われてイギリスに渡った、というバウマンの経歴を考えても、固定的な近代の復活を望んでいる、とも思えません。

 

 近代的文明社会の多様性は、敬遠され、嫌悪されながらも解消されない「野蛮な現実」ではなく、むしろ歓迎すべき、幸運な状況なのである。なぜならば、多様性はその不快さ、不自由さを補ってあまりある利益をもたらし、可能性の地平をひろげ、生活改善のチャンスを、他のどんな状況にもまして、拡大するからである。もっとも希望のもてる統一性とはなにか。それは価値、嗜好、生活様式都市国家の自立した構成員のアイデンティティを、対立、論争、調停、妥協によって決定し、日々、変更させるような統一性である。

 

 先述のとおり、似たような主張が、微妙な変更を加えながら繰り返されるので、どれが結論なのか、判断しにくいところではあるのですが、バウマンが主張し、また少なくとも2014年の現在から将来を展望したときに、最も現実的な解答は、自由と多様性を尊重した中で、自由がもたらす不安定さに悩みながらも、自由の肯定的な面に希望を見出し、せいぜいが、「ゆるやかなつながり」で不安定さを抑えていく、ということになるのだと思います。

 

 他人から干渉をうけずに、他人とのつきあいを楽しむ行動。仮面をかぶるのが、市民的であるには不可欠である。仮面をかぶることによって、力、弱さ、個人的感情は切り離され、純粋なひとづきあいができるようになる。市民的であることの目的は、自分に忠実であることの重荷を、他人に押し付けないことである。 

 

  市民的であることの要点は、見知らぬ者と関係をもつにあたって、変わった点をかれらの欠陥と考えないこと、変わった点をなくすよう、あるいは、見知らぬ者を見知らぬ者たらしめている特徴を矯正するよう、圧力をかけないことにある。

 

 本当は、ここからバウマンの主張を受けて、今後の行政の在り方みたいなものも、少し考えてみたのですが、読み終わってから少し時間も経ってしまい、あまりまとまらないので、この辺で。

 

 たとえば、この流動的な世の中で、介入できる余地が減る行政に何ができるのか。市場や資本の原理が強く働くとき、それを行政が和らげることができるのか、あるいは和らげることが許されるのか。ゆるやかなつながりを維持、創出していく場づくりみたいなものに、どこまで貢献できるのか。

 

 あるいは、また、行政で働く職員自体も、この流動的な現代で自由を求めて生きる同じ人間であるのに、これまでのような硬直的な組織で働くことができるのか。あるいは行政組織も人間らしく流動的な組織にしていくべきなのか。

 そうなると、また一方で、個人的には全然どうでもいい話なのですが(笑)、いわゆる「安定した仕事」としての公務員像はどうなるのか。このブログに外部検索サイトから流入してくる量としては、13年12月のこのエントリが、投降後、安定して多い状況が続いてたりするもするので。

 

 個人的には、行政の力が弱まれば弱まるほど、民衆の自由を認めれば認めるほど、行政は時代の先端ではなく、後ろからついていく形にならざるを得ないので、公務員は引き続き最も保守的な勤務形態が温存されるし、その中で社会全体の揺り戻しによる一時的な自由の放棄もあるのだとは思いますが、長期的に見れば、公務員であっても、直接長期雇用はやがて消え、短期契約や業務委託の形が進んでいくのだろう、と思いますが。 

 

 なお、タイトルの歌は、西行です。一家に一冊、と思いましたが、「山家集」は今、古書でしか手に入らないみたいです。新古今にも入ってたか不明。 

山家集 (岩波文庫 黄 23-1)

山家集 (岩波文庫 黄 23-1)