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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

【行政】イベント屋化する市役所

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※ヘッダ画像は某フリー画像サイトで「イベント」だかで検索したら、最初に出てきたから、であって、けっして市役所がやるイベントって打ち上げ花火的ですよねー、という意味では、な、、、い、、、と思います、、、。

 

 

 なぜ、近年の市役所はイベントをやることが主たる事業と化しているのか、市役所がイベントをやるべき、あるいは、やらざるを得ない、肯定的な理由、あるいは、必然性を3点述べる。また、本当に市役所がやるべきなのか、やりきれるのか、という疑問点についても最後に示す。

 

理由(1)メディア化する市役所

 宣伝会議「ブレーン」2014年6月号の特集が、「新しい街づくりへ! クリエイティブの挑戦」で、面白いな、と思った。広告代理店まわりのクリエイティブ層が自治体や地域のNPOとの活動するケースが増えている、という特集だった。

 面白いと思ったのは、自分が市役所で仕事をしていて、元々、この4~5年、今後の市役所が向かう先は、従来、広告代理店が手掛けてきた分野と、ノウハウなどの点で重複するのではないか、とか思っていたりするからだ。

 いや、広告代理店と仕事をしたことがないので、本当に今まで彼らがそんなことをしてきた実績があるのか、今それをやれる実力があるのか、今後、そんなことをやっていく野心を持っているのかは、分からないのだけど。でも、あの特集を読む限りは、重複するのだろう。

 つまり、今後の市役所がやるべき大きな仕事の1つは、何らかの社会的課題に焦点を当て、その解法を導くために、どうやって市民(あるいは市外の有識者)に興味を持ってもらうか、ということで、それには、まず何よりも社会に向けてメッセージを発することが重要だと考えている。社会への発信、特に興味を持っていない層に興味を持たせること、というのは広告代理店の領域ではないだろうか?

 

 なぜ、個人の興味を引き立てることが、今後の市役所で重要な業務となるのか。

 個人的には民主主義に肯定的なのだけれど、小学校の学級会以来、マイノリティに属してきた身としては、しばしば「うるせーバカ、もっと考えてモノを言え」とか思うことはある。多数決ですべてを決するのは単なる全体主義だとしか思っていない。思想統制。魔女狩りの世界。

 

 ある課題について解法を市民に求めても、その道のプロではない普通の市民が正解を得られる可能性は、極めて低い。

 ただA、B、2つの選択肢があり、どっちにも長短あって、それは選ぶ人の価値観次第ですよね、というとき、あるいは選択肢を精緻に探究するにあたって、そもそもどっちの方向で解明していこうか、というようなときには、市民の多数決によるべきではないか。

 あるいは、単純に数の問題だけではなく、ある論点に賛意を示すにしても上滑りの同意によるのでなく、市民がそれぞれ考え、不都合も理解し、やむを得ないと「納得」した上で進むことが大事だと思っている。

 

 みんな日々の仕事や生活に忙しいから、行政全体の課題なんか、イチイチ考えてられない、というのが、正直な気持ちだろうし、少なくとも仕事を離れた一市民としての自分の態度はそうだ。

 「どっちでもいいから、適当にやっといてよ」と。

 

 ただ、そういう状況であっても、民主主義国である我が国は、社会的課題の解決にあたって、市民に興味を持ってもらい、関心を引き付ける必要があると思う。

 

 以上のようなことを、やまもといちろうさんが以前に書いていたブログでも主張されているのではないか、とか思った。

 

 民主主義が成熟した日本では、社会的課題の解法を民衆に問う必要があるが、正しい解を得る、あるいはみんなで納得した上で間違うためには、まず、その課題について市民が興味、関心を持つ必要がある。そして、興味、関心を惹起するには、広告代理店的な手法が必要とされるのではないか。

 それは単純に新聞や雑誌、テレビ、Webといった既存のメディアに出稿する、という意味ではなくて。

  もちろん、広告予算の少ない自治体において、効果的にメディア掲載を狙うためには、新奇性の高いイベントを行って、ニュースとして報道される、というのも重要な戦術だろう。

 ただ、それ以上に重要なこととして、単なるパンフレットの配布や、Webページの公開以上に、より主体性をもって市民が社会的課題に向き合う手法として、イベントに参加することを通じ、リアルに課題に触れてもらった方が、より深く考えるきっかけになるのではないか、ということだ。

 たとえば、広報紙で商店街の衰微とその支援を主張するよりも、実際に商店街に足を運んでもらい、その衰退を目にした上で、支援すべきかどうかの議論に参加してもらう。支援が必要である理由と、不要である理由を感じてもらい、どのように支援していくべきかを、身近な、リアルな課題として考えてもらう。

 すべての市民がしっかりと答えを持つ訳ではないにしても、確率の問題として、広報紙で配布するよりも、より多くの市民がより深く考える機会を提供するのではないだろうか。

 

 イベントで、さらに重要なことは、単なる参加者として市民に見てもらうことに加えて、運営サイドで当事者たちに参加してもらうことだ。

 イベントの趣旨、目的、成功の指標を定める段階から、当事者に参加してもらうことで、当事者たちですら日々の生活の中で見過ごしがちな課題の論点を整理し、自分たちで解決法を考えてもらい、そして、願わくば、イベントを離れた日々の行動に移していく。当事者たちは、本来であれば、課題解決に真に貢献できる人たちであるから。

 イベントへの参加を通じて、これまで無関係と思っていた市民が解決に役立つノウハウをもっていることが分かり、新たな当事者として、当事者組織の枠組みを変えていく、といったことも十分に期待できる。

 

 逆に言えば、市民に社会的課題に「なんとなく」でも触れてもらえないイベントや、当事者たちに当事者意識を引き起こせないイベントは、それは空疎なイベントである。

 

理由(2)選挙によるリーダー

 市役所の事業の中には、いちいち大々的に市民の注目を集めなくてもいい事業もあるのかもしれない。

 だけども、市役所の中で最大の…というよりも民主主義国であることに照らせば、唯一の権限を持っているのは、市長であり、市長を選択する民意は、選挙を通じて表明される、ということだ。

 そして、日本、という国の中で、わざわざ選挙によって職位に就こうとする人間には、多かれ少なかれ、こういう傾向がある、と言わざるを得ない。

 

 

 目立ちたがり屋だから選挙に出るのだとは限らない。しかし、少なくとも自分がやるべきことをやるためには、目立たなくてはならない、とは思っているだろう。

 だから、彼らはイベントを主催することを好む。仕方ない。

 

理由(3)単年度予算主義と成果主義

 これも大きくは2の要素と絡む一方、1の要素がうまく機能していないことの結果でもあるのだけれど、最近の市役所は、分かりやすい成果を求められる。

 本来、市役所は民間、あるいは市場が効果を出しやすい課題が時間軸上、短期的な解決に集中しがちな点の補完として、中長期的な課題に取り組むべきだとは思うのだけれど、たとえば、人口を増加させるような施策は一朝一夕では、成果など出ない。

 

 ことの良し悪しは別として、真に行政が取り組むべき政策課題、たとえば人口増加施策がきちんと機能しているのかどうかのチェックを求められたときにも、市役所は1年ごとに予算を議決するため、1年ごとの事業効果を測定する必要がある。

 おそらくは民主主義の進展として歓迎すべき事態ではあるのだけれど、近年、この事業効果の測定に対する圧力は強い。曰く公共事業であるからこそ、費用が適切に使われているかを確認する必要がある。費用には純粋な事業費に加えて、当然、職員の人件費、つまり投入された時間も含まれる。

 

 市役所の事業効果を測定する場合、往々にして成果指標は、市役所主催の合コンに参加した男女数や、その結果、成立したカップル数だったりする。イベントの参加者数とかが、最も安易に測定できるからだ。

 本来であれば、結婚や出産に至っているかまで測定すべきでも、1年間ではそこまでの成果を求めることは難しい。あるいは、本質的には、出産したとして、市の人口増加に寄与するほどのインパクトがあるか、といった部分も計測しなければ、成果指標としての意味などないと思うのだけれど、そこまで緻密に設計された行政の事業評価制度は、現実には、あまり多くない。

 

 おそらく民主主義国として、行政の事業がちゃんと成果につながっているのかどうか、きちんと数値化、指標化して測定をする必要はある。

 しかし、現実的には…少なくとも、うちの市役所で行われているのは、計測しやすい数値を使うだけで、本来の政策目標の達成度とは論理的な整合性のない、行政評価ごっこでしかない。他市の状況は知らないが、うちの市役所が極端にひどい訳ではないと思う。

 そもそもが2の要素もあいまって、個別の事業が長期的な施策とどう連動しているか、だけではなく、どれと連動しているか、すらも曖昧な事業も多い。あるいは、多様化する市民価値を反映する中で、個別の事業と施策が1対1ではなく、複数複数で連動しているときに、その効果の測定順位、プライオリティの付け方が曖昧なものも多い。

 

 かくして、市役所は今後も施策の達成度ではなく、拾いやすい成果指標を求めて、イベントを実施し、その参加者数や参加者アンケートの数値を集計していくだろう、と思われる。

 

課題 市役所がやれるのか、やるべきか

  2と3の点はともかく、1の観点から市役所がイベント屋化していくことには、個人的には肯定的である。

 少なくとも市民の関心を惹く努力は義務的であるし、そのためにイベント的手法以上のものは、ないと考えている。

 

 ただ、その際に、3の要素とも連動するように、個別のイベントがどういった社会的な課題について、誰に考えてもらうべきなのか、論点はどこなのか、といった点を市役所職員がしっかりと認識していく必要がある。

 はっきり言って、どういった政策課題をどう解決するために個別の事業にどういった成果が求められるか、という意識は市役所職員には、ない。少なくとも、うちの市役所では見かけない。

 確かに、課題をどう表現するか、という技術に関しては、市役所職員よりも、外部の広告代理店やイベント事業者に一定のスキルがあり、市役所が直営で行うよりも、外部委託を活用すべきかもしれない。

 しかし、そもそも何を課題として伝えるべきなのか、という点が曖昧である限り、外部事業者を活用しても、予算の浪費である。受注した側の彼らも、ただこなすだけのイベント運営にしかならない。実際、うらやましいことに多額の予算を獲得して、外部団体に委託をして、表面的には豪華な仕上がりとなりながら、何を目的に実施しているのか分からず、当然、成果も積みあがらないイベントも数々、見てきた。外に成果が見えないのではなく、当事者自身が何が成果だったのか理解できていない、というイベントを。

 

 また、何が課題であり、それを市民にどう問うか、という点をもっと精緻に突き詰めていくことで、3の部分の長期的な施策と達成度合いについても改善されるだろうし、2の目立ちたがり屋が選ばれる選挙においても、昨今の馬鹿げたワンイシュー選挙から、より中長期的な方針を問う選挙の実施を期待したい。

 

  だから、市役所職員は、もっとそういう視点をもって事業に取り組むべきだ、と言って締めたい…ところなのだけど、まあ、問題は、民間企業や市場原理が働いているところと違って、別にそういう意識をもたずに仕事をしてても、意識をもって仕事をしてても、給料も昇進度合いも変わらないんだよね。

 変わらないどころか、旧来の手法を改善しようとする勢力は、年功序列型の市役所組織では偉い人たちに(つまり、改善が必要と否定されている旧来の手法によって実績を積み上げてきた人たちに)、煙たがられるでしょうからね。

 でも、市役所の偉い人たちや現場の人たちが必要性を感じなくても、世の中はそういう方向に流れているし、時間はかかっても、そこは民主主義国なのだから、市役所もその流れには逆らえないですよ。

 

【14.06.22追記】

脱稿前に書き散らかしてたメモのうち、最終段階で見忘れてて脱稿後に捨てるのに読み直したら、以下2点、入れ忘れてた。

・イベントそのものがメディアとして機能することで、課題について議論しあう「場」を提供できる。

・イベント化することで、新奇性に加え、物語性を付与しやすくなり、より既存メディアへの掲載効果や既存メディアからの伝わりやすさが高まる。