aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

【交通】それって結局、自動車化を解消したことになるんだろうか。。。

 ジョン・アーリの「社会を越える社会学」を読み始めたんだけど、途中、面白い要素も散見されるものの、中々、キツくて、ちょっと中断。 

社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ (叢書・ウニベルシタス)

社会を越える社会学―移動・環境・シチズンシップ (叢書・ウニベルシタス)

 

  いや、高校くらいからデカルト以降の西洋哲学~近現代思想の本、読むのが、すげー苦手なんですよ。言葉の定義みたいなのを、いじくり回すだけの、言葉でお手玉してるだけみたいな文章とか、全然、本質的な議論だと思えず。あと、多分、当該分野に精通してることと、英語の理解力が高いことと、精緻な日本語を書けることは全部、違う能力のハズで、だったらマトモな訳本、作るには3人のスタッフによる分業でなされるべきではないか、と。

 

 で、息抜きに、複数人による論文集「自動車と移動の社会学」所収の「自動車移動の『システム』」を先に読んだ。 

自動車と移動の社会学―オートモビリティーズ (叢書・ウニベルシタス)

自動車と移動の社会学―オートモビリティーズ (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 「社会を~」の方を読み終わってないんだけど、300ページ超の「社会を~」を20ページくらいに要約した印象で、前半はだいたい同じことを書いてある。ぐだぐだとした言葉遊びがない分、スッキリ読めた。その代わり、前提条件となる共通認識みたいな部分は、さすがに荒っぽい印象もあるけど。

 

 主張としては、以下のとおり:

 自動車社会の到来と言うのは、19世紀末からの些細な偶然の積み重ねでしかないのだが、その不可逆的な変化によって、20世紀は自動車の世紀と言うにふさわしいほど、自動車化が進んでしまった。

 自動車の最大の特徴は、その柔軟性にある。自由にどこにでも行ける(しかも、その道路は通常、公共が負担して無料で使える)。しかし、その裏には、ある種の強制が潜んでいる。仕事場と住宅は離れ、買い物先も離れて歩いて行ける地元の商店は衰退し、余暇はどこでも過ごせるようでいて、実は幹線道路沿いにしか選択肢がなく、渋滞に巻き込まれやすい。

 

 また、少なくとも自動車化した西欧、北米(と日本)では視覚情報が非常に重要な文化圏であり、人と人との対話においても、お互いの視線が重要であるにも関わらず、自動車との間では視線の交換が出来ない。

 

 まなざしこそが個人と個人との、顔と顔との「もっとも完璧な交換」を生み出すのだ…自動車移動は…とりわけ車以外の利用者にとって…まなざしが交換されることはなく、「機械のなかの幽霊」からまなざしが返されることもない。

 

 では、そのような自動車化社会は、今後も進展していくのか。

 アーリは、固定電話やFAXの登場、そして、その後の携帯電話やネットの登場のように、ある日、突然、新しい技術が台頭して、自動車に置き換わる可能性を否定しない。

 

 アーリは、自動車の代替手段は、次の6つの要素が絡み合った中で、生まれるのではないか、と指摘する。

 

 1 ガソリンに替わる、新たな燃料システム(特にバッテリ)

 2 鉄に替わる、車体をつくるための新素材(特に炭素材料)

 3 スマートカードの技術による脱私有化

 4 共有利用による脱私有化

 5 交通政策による需要削減策

 6 情報技術と交通の連携

 

 ただし、これらによって台頭するのは、公共交通ではない、と言う。

 

 19世紀的な「公共移動」のパターン、つまりバス、列車、長距離バス、船といったものが優位を占めるパターンは復活することはないだろう。…ポスト自動車のシステムがどのようなものであれ…個人化された移動を実質的に含みこむことになるだろう。

 

 移動の自由をもたらした自動車に代替する技術は、公共交通のような自由を制限するシステムでは、不可能だ、と。

 

 …しかし、個人的には、1~6の技術革新によって生まれてくるものは、結局、新しいカタチの車、と言うか、車と大して変わらない移動手段じゃないのか、と言う印象を受けてしまう。それが自動車化がもたらした現代社会のさまざまな問題解決に資する移動手段になるのか。

 

 一応、機械工学科出身者として、フォローをしておくと、たとえば、自動車が街から消えて、原動機付自転車だけの街になったら、車と人間、あるいは都市との関係性は変わるかもしれない。もちろん、今の原動機付自転車ではなくて、それなりに機能性も美観も向上したものでないと、自動車を代替できないだろうけれど。

 

 いや、1と2、と言うのは、技術的には実は見逃せない視点だ、と言う話。

 人間の脳味噌が把握可能な移動速度と言うのは、だいたい時速40km/hくらいだ、と言う説がある。100mを10秒で走ると、時速36km/h相当なので、人間の体の限界と目と脳味噌の処理速度の関係性を考えると、妥当な数字に思える。

 では、なんで、自動車は人間の限界を超えて、より速く進化したのか。もちろん、これはアーリも指摘しているのだけれど、自動車が男性的なマチズモを象徴するものだったから、際限のない高速化、高出力化に技術の進化が向かった、という面もある。

 ただ、一方で、1番の要素、自動車の動力源が偶然にもガソリンエンジンだったから、と言う部分もあるような気がしてきた、この本を読んでいて。

 ガソリンエンジンは、ある程度、高回転で回さないと安定して出力が出ないのである。最近の日本車はだいぶ高回転型からトルク型にシフトしてきている、とは言え、やはり基本的にはガソリンエンジンは回転数を上げた方が、出力を維持しやすい。少なくとも、どうやったところで、技術的に、アイドリングは普通800回転くらいは必要になる。

 ひょっとすると、ガソリンエンジンのままでは、人が歩く速度で車体を移動させる技術の方が難しいかもしれない。

 

 つまり、黎明期の自動車は、本当は、そんなに高速は必要なかったのだけれども、エンジンを安定的に駆動させるために、高回転が必要だった、と言う可能性も…まあ、検証してみる価値はある。だから、ガソリンエンジン以外の動力源を選んだときに、速度は必要ない、という技術思想によって設計される可能性もある。

 

 2番目の材料も似た話で、ガソリンエンジンは爆発エネルギに耐えるために鉄製である必要があっただろうし、エンジンを載せ、支える車台もある程度、鉄が必要だっただろうけど、黎明期の自動車は木も使っていた(木の方がある意味、重くなるけど、比強度とか考えると)。

 おそらくは鉄で造る必要があったので重くなってエンジンに高出力が必要になり、エンジンが高出力になったから、それに耐える頑健なボディが必要になって鉄以外の材料が選択肢から消えた、という面はあるのではないかと思う。

 

 つまり、電動のモータとFRPでできた車は、4人乗りで1トン超という鉄の塊とは、まったく違った発想で設計される可能性は、ある。その設計思想が、人間と調和するような、もっと生身の人間の延長線上にある道具を目指す可能性は、ある。

 

 可能性は、あるけど、それが自動車を駆逐して普及するかは、別問題だ。

 

 と言うのは、コミューターカーと呼ばれる、この発想自体は、私が機械工学科にいた10年以上前から存在していたし、愛知万博(05年?)のときにトヨタ自動車も、そういうコンセプトモデルは既に発表しているから。あるいは、セグウェイとかも近い発想だと言えるし。

 

 結局、こういう乗り物が普及するためには、カーシェアリングとか使い方を含めたデザインが必要なのだろうし、逆に言えば、カーシェアリングのような使い方も、その使い方に合った機械が登場しない限りは爆発的に普及することはないのだと思う。

 ロックがメインストリームの音楽になってMTVが出来たのと、ウォークマンが市場に出たのが、ほぼ同じ時期、というような、インターネットとWindows 95とインターネット・エクスプローラーとYahoo!…という比喩が適切かは自信がないが、そんなようなタイミングが必要なのではないだろうか。

  

 ついでに、情報技術のところでアーリが言及していたか忘れたが、多分、自動運転技術、あるいは遠隔操作技術みたいなものも、ここに絡んでくるだろうとは思う。

 

 とりあえず、「社会を~」の方は気力が萎えなければ明日以降、続きを読みます…。