aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

【雑】あんまり大きい政府とか小さい政府とか関係ない。つうか、その枠組みだと趣旨を外す。

 世の中、参議院選挙期間中なのだけど、特定の政党を支持するための、あるいは支持しないためのエントリではない。

 公務員にとって、そういうことはデリケートな領域なので、進んで手を突っ込む気はしない。(地方公務員法第36条

 というより、そもそも、このエントリを書くべきかツイッターで呟くだけにしとくかと、つらつらと3分くらい考えてみるに、多分、どの政党とも、この問題意識を共有できやしない。ある党は見ている先は同じかもしれないけれど、解決法があまりにも違う。ある党は掲げる政策は共感できそうなのだけれど、その先に見ているものは全然、違う気がする。

 

 本題。

 個人的には、人間の自由意志を尊重すべきだと思っている。もちろん、人の選択なんて、その人が持っている選択肢に依存する訳だから、風俗で働いているお姉さんを「好きでやっているんでしょう」と一言で片付けていいかどうかは、ともかくとして、擁護や保護が規制と表裏一体だということを考えると、個人的には、自由意志を尊重した上で転んだ人に手を差し伸べるべきではないかと思う。転ぶ前に杖を差し出したり、抱きかかえたりするのではなく。転びそうで不安な人に、杖や手すりの存在を教えてあげるくらいは、まあ、ありかもね。使うか使わないかの選択肢は、相手にあるのだから。

 

 で、自由意志で動く、ということを考えたときに、政府は大きくなるか、小さくなるか、と言うと、一般的には個人の自由を尊重する政府、というのは、小さな政府になるはずなのだけれど、少なくとも現代の日本の場合、個人の自由を尊重するには、政府(あるいは地方自治体)の仕事は、少し外縁に広がって、大きくなるかもしれない、という思いつきが今日の主題です。

 主題、というか、結論と言ってもよくて、ここから先に大して広がりはないのだけれど。

 

 もう少し深入りしておくと、今の日本って意外と社会保障を企業や地域コミュニティに依存してたりするけど、本当に自由な社会を作ろうとしたら、そういう部分をもっと徹底的に破壊して、変わりにいくらかの保障を政府が担うべきなんじゃないの? ということです。

 …最初に見てたのと、ちょっと違う着地点が見えてきて、軌道修正しつつ論を進めると、大企業で仕事をするのと、個人で仕事をすることの差が、依然、存在はするのだろうけど、薄まっている気がして、当然、自由意志という観点からは、個人でやれるならやった方がいいよね、ということです。

 もちろん、その意志決定のスピード…と言うよりも、決定した事項に沿って大規模の事業を展開するスピードに関しては、大組織の方が圧倒的だ。いわゆるスケールメリットってヤツはデカい。

 だけれども、ここで敢えて言い直したように、世の中が民主的になってくるとイチ民間企業であっても組織内の意思を決定するのに時間が掛かったり、その過程で当初の狙いが薄まったり、曲がったりしてしまう。

 個人がその目的ごとに有機的に連携した方が、確度は高い。そして、ITとかの発展で、有機的な連携はしやすくなっている。あるいは、そういう連携を支援しようという、新しい技術やビジネスが生まれつつあるように思う。

 給与の計算や税の申告、トイレ掃除やあるいは今日、どんな服を着て出かけるか、と言った本来の業務とはあまり関係なく、他人に任せたい仕事についても、そういう連携の中で、個人が他人に委託できる範囲は、広がっているようにも見える。そしてそれは、より安く、高度で深いものになっているように見える。

 資金調達にしても、これまでの社長個人が連帯保証人になって家屋敷を担保に入れた結果、失敗すると身ぐるみ引っぺがされるような金融システムから、個人であっても何らか資金を得られる仕組みができつつあるように…見える(ま、真実はそんなに簡単じゃないんだろうとは思うけどね)。少なくとも、そういう姿勢を推し進める流れや、低すぎる金利の中で多少のリスクを背負ってでも資金運用しよう、という流れはあると思うので、結構、小さなキッカケ次第じゃないかと淡い期待はしてみたりする。

 

 そうなると大企業にあって、個人事業主にないものは、行き着くところ、やっぱり失敗の保障をどうするか、という部分じゃないだろうか、とか思った訳です。

 大企業にいれば、多分、プロジェクトが失敗に終わって、今日で解散です、と言った後も、翌日から普通に別の仕事がある。あるいは明確なプロジェクトの終了も分からないうちに、淡々と次の部署に異動させられる。もちろん同期での出世レースには出遅れて、それは一生回復不可能なものなのだろうけど、生涯賃金が数%低くなるのと、肩書きの問題でしかない。それで死にはしない。

 

 それを考えると、個人が自由な発想で色々なことに取り組む体制をつくっていくには、もう少しベースの部分で転んだ人を立ち上がらせるための、政府による保障があってもいいのかもしれないな、とか思った訳です。

 まあ、失業保険とか、生活保護とかが既に存在するので、それをもう少し薄く広い感じで、現代にアップデートするって形でもいいのかもしれませんが。

 で、これは多分、個人事業主によるビジネスの話だけじゃなくて、政治や社会と個人のあり方として、多分、教育とか医療とか結婚とか育児とか色んな分野に敷衍できるモノの考え方、だったりするかも、ということです。

 

 なので、個人の自由意思を尊重する。そのために逆説的だけど、少し政府の仕事を増やす必要があるのかもしれない、とか思った次第。

 もちろん、そこのセーフティネットの部分も生命保険や損害保険のような民間のリスクヘッジシステムでできるんだったら、それにこしたことはないと思いますが。

 

 いや、結構、がんばってポジティヴな面を一生懸命、書いてきましたけれども、本当に一番、書きたかったことは、ワリとネガティブな話で、雇う側にとっても雇われる側にとっても、「こんなハズじゃなかった」と思いながら、組織に留まって、ずぶずぶと関係が続くのって、お互い不幸な話で、関係を清算して前に進むためには、個人の生活をその組織が引き受けるのではなくて、社会全体で(すなわち政治が)一時的に引き受けるシェルターがあってもいいよね、という話です。シェルターないとさすがに可哀想で切れないよね、という話になりがちですよね、という話です。

 …という書きぶりにしてみて、やっぱり仕事だけじゃなく、離婚とかも同じ問題あるんだろうな、と思った。

 

 蛇足ですけど、最近の流れとして、こういう社会の役割を誰がすべきかって議論について一面的に政府がすべきではなく、欧州系の「公的(Official)ではない公共(Public、人民の)が担うべき」って話とか、政治に民間の活力をって話とか、政府にもコスト意識を、みたいな話がありますが、それはどうかなと思うことも多々あるんですよね。

 いや、先述の通り、それなりの市場規模があって、公共的な役割を担った民間企業が複数者で、つまり市場原理が働く中で、業務としてやっていけるなら、全然、大賛成なんですけど。

 ただ、実際に地方の市役所にいて思うのは、そういう題目の下、今、田舎の市役所がやりがってることは、大企業が業務を下請けに出してコスト削減してたり(外注化して固定費を変動費化するのとは本質的な狙いが違う)、「夢」の名の下に若いクリエーターを搾取してたり、と同じレベルでのブラック化でしかない。そして、仕事の品質は、当然、費用に見合ったレベルへと収束していく。

 で、民間と違って、役所の場合、投げられた業務によって…ここで今日の本題に戻って着地点がキレイに見つかって一安心なですけど、政府が担うべき役割を地域とか市民とかいう有象無象に権限を与えることによって、法治システムを離れて、社会が中世ばりのムラに退化して、個人の自由意思が抹殺されていく、とか、マジで耐えらんない。