aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

【都市工学】地方都市の成長を考えたら自動車が交通インフラじゃダメじゃん、みたいな話

 先日、togetterでマトメられてた「都市がイノベーションの中心である本当の理由」って、マトメが面白かったです。

 

 一応、原文の元記事も読んできたけど、あんま読む価値なかったw まとめとの大きな違いは、前段のなぜ、都市で爆発的な成長が起きるかって言うと、人と人とのコミュニケーションが重要なんですよって話に紙幅がさかれてるんだけど、全体の7割くらい過ぎたところで、突如、「でも、それって昔から言われてきたことで、別に新しい知見じゃないんですけどね」と、バッサリ切り捨てる、というw

 

 で、その後は、まとめと同じように、人が集まっているのにイノベーションが起きない都市が、なぜ、存在するのか、という話に。

 その理由とは、交通基盤が整備されておらず、人々のコミュニケーションを分断している、と。そして、人口が増えすぎた都市では、コミュニケーションを支えるインフラを整備できないために、人口4,000万人くらいで都市の限界を迎える、というお話。

 でも、個人的には、4,000万人も住んでいるような巨大都市に興味はないのだけど。

 

 それでも、興味深いなー、と思ったのは、交通インフラの未整備による都市の分断って、まさに今、全国の地方都市が抱えている問題なのかも、と思っていたからです。

 日本における都市成立論については、大和総研の鈴木文彦氏による、この2つのコラム()が面白いなー、と思うんですよ。必読です。

 全ての都市に、こういう変遷が当てはまるかは分かりませんが、ウチの街について、都市形成の概略を書いておきます。

 まず、中世。市の南北を縦断するA川と、その支流で東西を横断するB川の合流点に町場が形成されました。中世以前には、B川の上流(東側)にある丘陵地帯~扇状地に、旧石器時代~縄文~弥生~古墳~奈良~平安まで、かなり途切れることなく遺跡が発見されてるのだけど、明確に人が歴史的な中心市街地にやってきたのは、鎌倉~室町の頃。

 この時代の人たちが、なんで川の合流点に街を作ったかって、物流の拠点で交易の拠点だったからですよね。網野善彦とかによると、中世において川は、単なるインフラ以上の存在で、世俗と切り離され、公権力も及ばない土地として、自由市場の形成に貢献したって見方もできるようですが。

 

 ともあれ、うちの街は、その後、豊臣、徳川両家から目を付けられて支配者が転々としている間に、城がなくなり、江戸時代を通じて、幕府の天領だったり、県内他藩の飛び地として支配されたりして、世にも珍しい支配者のいない街として、明治を迎えます。

 ここで注目すべきは、街が形成されたのは、A川の右岸(東側)、B川の右岸(北側)であって、A、Bどちらの川の左岸にも街は広がらなかった、ということ。川を交通インフラとして成立した街でありながら、同時に川が都市の境界でもあった。川はその流れの上下にはモノや人を運ぶけれど、横断するのは難しいインフラ、というか。

 

 次に、明治時代になると、幹線鉄道A線が街の東の方に、近世の町並みをかすめるようにして、南北に伸びる形で敷設され、町場も徐々に、その東の駅前に移っていく。後から、B川に並行するような形で町場の北側にも鉄道B線が敷設されるのだけど、B線は地方線のまま、大して便数も増えず、街の発展に資したとは思えない。

 一方、徐々に人口が増えてB川の南にも住宅地ができはじめ(A線の駅が川の南側にもあったこともあり)、市域は広がっていくのだけど、現代にいたっても、北駅・南駅とも従来の街側、A線の鉄道の西側にしか街並みは、ほとんど広がっておらず、駅裏に当たる東側は田んぼが残っていたりする。

 ここでも、鉄道を交通インフラとして、都市が広がったにも関わらず、同時に鉄道が境界になっている。鉄道が上下に人や物を運ぶわりに、横断するハードルは高い。

 

 そして現代、一級国道が南北を貫くA川の西側(街の外側)に並行する形で整備され、さらにその外に新幹線、そのまた外に高速道路が整備されて、新幹線駅前が将来の中心地!と言われ続けて、今、新幹線開業から30年経つのだけど、まだ、将来の中心地のまま。

 多分、運が悪かったのは、新幹線の開業とバブルの到来がほぼ同時期で、開発される前に地価が上がりすぎてしまったのと、後、1980年代には首都圏郊外とかの開発抑制のために、中心市街地再活性化の機運が高まったりもして、地価が高すぎて開発しづらい新幹線駅前に投資規制がしかれた、というのは、あると思う。

 

 そして、もう1つ、実は今さらながら大きな影響があったんだろうなあ、と先のまとめや元記事を読んで思うのは、市民の行動範囲を考えたとき、何よりも大きい交通インフラは国道なのだけど、結局、自動車用道路というのは、人を上下方向で結びつけるインフラであると同時に、横方向では分断してもいるんだろうな、ということです。

 それは郊外に敷設された国道だけでなく、郊外と街中をつないで、そのまんま街中を突っ切っているような県道、市道の幹線道路なんかも含めて。

 上下方向の結びつきを強めるために道路を拡幅していった結果、横方向には分断してしまっている。道路の真ん中を車が走っていて、その両側に店が並ぶけれども、今や道路の右側と左側は、分断された異なる街として考えるべきなのだろう、という。

 

 そこで、国道部分について言えば、ウチの街がさらに不幸なのは、元々、A川の東側にあった街なので、新幹線駅前の新しい開発地域に行くには、A川を越えなくちゃいけないんだけども、これがまた橋が細くて(あるいは川がデカすぎて)、いまだに都市を分断していたりもするのですよね。

 そして、A川と国道がほぼ並行しているので、国道でも分断される、と考えると、そもそも国道と旧市街地の間(国道と川の間)に活用できる土地はほとんどない、という。

 さらに、そもそも、A川の西側に人が住んでなかった理由は、ここA川の氾濫原で、いまだに夏場、雨が降ったりすると、すぐに小さい道が小川になるような地域でもあり、そこの排水対策やってでも、ここに資本を集積させますか、という。

 ってことを考えると、うちの街が生き残るためには、旧市街地(ないし、幹線鉄道前、あるいはその2者をつなぐ第3の場所)に、どうやって人が集まりやすい仕掛けを作っていくかってことなんだろうな、と思ったり…思わなかったり…。