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aemdeko

日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

サンセバスチャンに行ってみたいとは思う/高城剛「人口18万の街がなぜ美食世界一になれたのか」

  「たけしの誰でもピカソ」に出ていたとき、何だかよく分からん怪しいオッサンだなー、と思ってみていて、その後、沢尻エリカとのゴタゴタを通じて、個人的には、ますます怪しい印象しか持っていない、高城剛さんの本。

 

 たまたま料理、飲食店関係の本を読んでいて、サンセバスチャンという街の名前を目にして、どうやらイタリア料理ブームの後の、バルブームというか、スペイン料理ブームに影響している街らしい、と思っていたところに、Twitterで木下(@shoutengai)さんが紹介していたので、読んでみた。

 

 

 まあ、読んで、サンセバスチャンには行ってみたい、とは思った。

 単純にメシ食うために、と言うのと、街の雰囲気とか観光客の構成を見たい、と言うのと、後はやっぱり実際にやってる人たちの考え方とかを聞くために。

 

 とは言え、スペイン政府全体の方針と、この街独自の取組との整理や、フランコ政権崩壊・バスク独立運動・EU加盟といった時間軸での動き、変化と、バスク人という固有のアイデンティティを持った人たちの歴史的な文化、伝統との整理も、個人の感想レベルに留まっている、と感じた。まあ、新書であって、研究書じゃないから、そんなもんか、とも思うけど。

 

 食を通じた地域活性化の方策としては、B級グルメやゆるキャラよりもよっぽど正統派で地に足着いた取組ではあるのだけど、では、地域活性化のツールとして、どういう食を扱うか、の前に、そもそも、食が正解なのか、と言うのは、考える必要があるところ。

 まあ、観光という視点では、どっちみちメシ食うところは必要だし、メシの吸引力は強いよね、という話だけど、では、外貨獲得策として、本当に観光なのか。

 

 それから、食を軸とした観光振興を図る、と決めた場合でも、いきなり外部の人を狙いに行くのか(海外か全国か)、近隣の人を狙いに行くのか(日帰り圏内、同一方言内)、まずは地元民からしっかりした支持を得るのか、という点も大事だと思う。

 少なくとも外国人相手で行くなら、和食、郷土料理みたいなものが効くのだろうけれど、それで地元民に評価されるのは、相当、難しいと思うので。

 その点については、確かに本書中で紹介があった、伝統的な料理と「見た目が同じ」か「素材が同じ」という切り口は、地元民と観光客を両方納得させる、一つの可能性なんだろう、と思いますが。

 

 あと、本書中、観光から、研究開発都市への変貌を図る、というくだりで、シリコンバレーにも言及していましたが、そういえば、うちの市(前の職場)でも、産業振興に資する人材育成機関設置の計画が動いていたハズだけど、その事業の担当者って、スタンフォード(のとある教授)によるWW2と冷戦による研究開発資金獲得から、通信、電子計算機、半導体装置、ソフトウェア開発の集積地となった経緯くらいは、当然、読み物として読んで、何が真似でき、何を変えるべきか、くらいは考えていてほしいなあ、と思いました。

 まあ、僕は火中の栗を拾いに行くような性格ではないので、どうせ失敗・炎上するだろうから、ヤケドしないように距離を取りつつ、廃墟になって5年くらい経ったら、再建活動に協力すればいいか、くらいのスタンスで臨みたい。

新国立競技場問題と、成熟した民主主義社会における行政の意思決定

 新国立競技場問題は、ザハ・ハディド案に決定以降、何かしらずっとモメてる、というくらいの認識しか持ってなくて、なんで、あんなにモメてるのか、さっぱり分からないし、分かるための情報収集とかもコレといってしてないのですが。

 

 ただ、東京に(東京オリンピックに)シンボリックな建物が必要かどうか、という議論と、それを国や都の金で建設すべきかどうか、という議論は、分けて考えるべきではないか、と思う次第。

 後者の問題は、さらに、今日のタイトルでもある、そもそも国や都に、そういったシンボリックな建物を建てるプロセスを管理できる能力があるのかどうか、所属する個人の資質の問題ではなく、現代社会において対応できる組織なのかどうか。

 

 一つには、日本の行政組織は、年功序列型制度の採用をはじめとして、前例踏襲型、保守型、安定型の組織であるため、新しい価値を生み出すことには適していない、と思うんですよね。

 そして、人は自分の知っている範囲内でしか物事を考えることができず、まだ見ないものの価値を評価することは極めて難しいために、そもそも成熟した民主主義社会においては、民意に基づいて動くべき行政組織が新しい価値を提示できるのかどうか。

 この辺りは、一方で、行政職員の専門性、プロフェッショナリズムをどう考えるのか、民意は行政に何を附託するのか、という部分や、本当の意味でのPublic Relationをどう考えるか、で解決できそうな気もするのですが、政治家でも行政職員でも、そこを真剣に考えている人は、あまりいなそうなので、現実、日本では後ろ向きな、小さな政府を志向すべきなのだろう、と思うのです。

 

 となると、成熟した民主主義国である日本では、新しい価値は、市場において淘汰され、選択され、決定されるしかない、と思うんですよ。

 

 つまり、ザハ・ハディド案に対する世論の大まかな傾向は、「そんなに建てたいなら、お前の金でやれ」というところに落ち着くのではないか、と。

 で、実際、3000億くらいだったら、シンジケート組んだりすれば、普通に建てるだけの出資ができる企業もいそうだし。

 

 もちろん、インテリ階層に所属する自分の感触として、日本人のインテリは、いまだにマルクス/レーニン的な共産主義の亡霊に取りつかれているので、金持ちしか行動できない社会でよいのか、とか、一度建ててしまえば社会全体に影響を与えるもの(市民に選択されなかった場合にも、すぐに元に戻せないもの)は個人の自由意思に任せず、事前の調整が必要だ、とかいう発想を捨てるのは、難しいことだと思うんですが。

 

 でも、最初の私の問題提起に立ち返れば、じゃあ、行政は、その事前の調整ができる組織なんですか? 調整機能に課題があると認識し、調整機能を高めるための努力を重ねていますか?

 

 そんなことを今週の木下さんの連載を読んで考えた次第。

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色々と誤解されそうな本/M.E.ガーバー「はじめの一歩を踏み出そう」

  やっと読んだけど、タイトルをはじめ、ちょっと誤解されそうな本だと思った。

はじめの一歩を踏み出そう―成功する人たちの起業術

はじめの一歩を踏み出そう―成功する人たちの起業術

 

 

 原題は、「The E-Myth Revisited: Why Most Small Businesses Don't Work and What to Do About It」で、E-Mythとは著者のガーバー氏が経営するコンサル会社の名前でもあり、「Entrepreneur Myth」(起業家の神話)の意味だと本文中でも紹介されているのだけれど、これは起業のための本と言うよりも、原題の副題にある「スモールビジネスがなぜうまくいかないか、どう対処すべきか」の本だと思う。

※そこがつまり、華々しい起業家の神話に惑わされず、地道な経営をしよう、という主張なのだろうけど

 

 本書の主人公、サラがおばさんから受け継いだパイか何かの店を営む小規模事業主であるように、別に起業家でなくても、むしろ親とかから個人事業を継承したような商店主や職人が読むべきなのではないか、と思った。

 

 もちろん、既に事業を始めてから、この問題にブチ当たるより、創業前にこの視点を持って準備を進められた方が、はるかにスムーズに事業を進められるのだろう。

 それに、今の日本で、独立・企業をする人の大半は、プログラマやグラフィッカーのような、IT分野ではあっても、結局、自分の技術力を頼りに独立しようとするような、職人的な仕事をする人たちなので、それらの起業志望者向けに設定したタイトルなのかもしれないけれど。

 

 もう1つの違和感は、この本がフランチャイズ化や、事業の売却を目標にしているように思えてしまうこと。

 マニュアル化を徹底すると、従業員のモチベーションを逆に低下させるのではないか、という話題にもそれなりの紙幅を割いているので、おそらく本当の主張は少し違うのだろうけれど、ビジネスモデルを作ってそれを他人に売るのが一番、儲かる、と言っているようにも読めた。

 多分、本当の主張は、ビジネスがちゃんと回っているかどうかを常に検証し、改善を加えていくためには、なるべく曖昧さをなくして、論理的な仕組みに落としていく必要がある、という点にあって、結果的に、十分にシステム化された仕事であれば、自分がいなくても成立可能だ、という論理なのだろう、とも思うのだけど。

 あるいは、自分がいなくても回る仕組み、と言うのは、自分がいないときに、スタッフがお客様に対して間違った印象を与えないために、システム化が必要、という話にも読めるのだけれど、それにしたって、事業の大規模化やスタッフを雇うことに興味がない人間はどうするんだ、という話な訳で。

 

 多分、起業をしたくなる人は、他の誰かではない自分でなければできない仕事をやりたい、のだろうけれど、それならスポンサー/パトロンを見つけて、職人や作家として生きていく方が正しくて、経営者になりたいのであれば、たとえ、個人事業主であっても、なるべく事業をシステムに落としていくことが必要であり、システムに落とす能力こそが他人にない自分の強みだと思える人が起業を目指すべき、という主張なのか、とも思った。

 もっとも、論理的に検証可能なシステムに落とせるものが正義、というのは所詮、近代西洋科学の発想であって、そこも疑ってみる必要はあるだろうけれど。

勉強になります/カリスマビール売り子と新人の決定的な差

 おのののか人気を受けた影響なのか(人気なのか?)、野球場のビール売り子についての記事。

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 接客業のありかたを考える上で、大変、勉強になります。

 

 とは言え、この記事を読んで思ったのは、彼女のいろいろな行動そのものを、仕組み化して、マニュアルに落とし込んで、他の子たちにやらせても、多分、薄っぺらい表層的な、嘘くさいアピールになって、お客さんには響かないんだろうな、と。

 …いや、大半のお客さんには、それでも満足してもらえるのかもしれないけれど、一部の敏感な客には、うさんくさく見られそう、というか。

 仕組み化できるとすれば、彼女がどういう視点で行動をしているか、という大まかな話で、でも、じゃあ、そういう考え方で各自が行動すると具体的な行動としては、どういう動きにつながるか、を考えるには、多分、ほとんど役立たない、という。

 

 産業革命が肉体労働から人間を解放した一方で、その初期には、逆説的だけど、機械を扱うワーカーとしては一部で逆に肉体労働者が増えたのと同様(たとえば、掃除機と清掃作業、自動車と運転手、製造ラインとライン工とか)、ITが普及するに連れて、多分、論理的思考を資源とする労働者は一部で増えているような錯覚に陥るけれど、長期的には、そこは機械に代替されていくハズで、そうなると、個人的には、人間が行う仕事は、論理的思考力を離れて、より感情を扱う職業に集中していくのかな、と思うんですよね。

 で、果たして、感情を扱う職業というのが、仕組み化、システム化、マニュアル化可能で、コピペして大規模化できる仕事なのか。

 あるいは、コピペして大規模化できる仕事ならば、機械化できてしまうのではないか。

 

 もちろん、肉体労働を代替・伸長する機械を扱う肉体労働者、と同じように、一部機械化可能なんだけれども、全部を機械化するには、技術やコストが追い付かいない、というニッチな分野で、引き続き人間が必要とされる、という現象は存在するのだと思いますが。

やっと読みましたわ/木下斉「稼ぐまちが地方を変える」

  と言う訳で、今週の東洋経済の連載も、バタバタしていて、やっと読み、

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その勢いで中断してた本書も読み終える。

 

 

 まあ、木下さんの主張については、「まちづくりデッドライン」の発売前後から、かれこれ2年くらいTwitterやら、先の連載とかで追っているので、個人的には目新しい話は、それほどありませんでした。

 毎回、同じ話になる、と言うのは、それだけ主張が首尾一貫している、ということで好感が持てますし、新書という読みやすい形式で、一気にマトメて読めるので、まだ彼の考えに触れたことがない人には、大変、入りやすいのでは、と思います。

 

まちづくり デッドライン

まちづくり デッドライン

 

 

 以上、終わり。

 以下、与太話。

 本論以外の細かい部分で、個人的に気になったのは、2点。

 

 1点目はどうでもよいくらい個人的すぎる話で、前から木下さんの過去の経歴を見るたびに、同じ時代に同じ場所にいたらしい気がしていたのですが、今回、木下さんがまちづくり活動に入る経緯を改めて読んで、おーやっぱりあそこのことかー、という本当に個人的な話ですいません。

 乙武さん(年齢1個違い、学年一緒)が有名になった当時、商店会の会長で、後に小泉郵政選挙国会議員になる安井さん、というおじさんが経営しているスーパーのすぐ裏に自分は住んでて、冷蔵庫代わりに、ほぼ毎日、買い物行ってたんですよねー(遠い目)。

 もっとも近くにいた、とは言え、

 ちなみにこの時、私以外の応募者はゼロ。…当時は見向きもされていませんでした。

 と言う訳で、自分も当時、まちづくり活動とか全く興味なかった、と言うか、そもそも、本キャンの近くに住んではいても、そこから大久保まで通っていた訳でして、自分がまちづくり的なことに関わることになるとか夢想だにしてなかったし。

 

 2点目。補助金について。一応、出す側の立場にもいたし、国から貰う仕事や貰うのを手伝う仕事も少しやったりした身として。

 補助金事業メニューというものがあり、「こういうことをやれば補助金をあげます」と使い道がもとから規定されています。そうすると、補助金をもらうことが目的化して、みんなが役所の推奨する取り組みばかりするようになります。

 本来は、まちづくり分野に限らず、特定の取り組みを推奨する、という補助金の機能こそが上手く回っていた時代もあったんだろう、と思います。いや、当時ですら本当に回ってたのかどうか怪しいとも思っているんですが。

 つまり、明治時代の富国強兵、殖産興業の世界や、戦後の復興期、高度経済成長期には、国を代表する知的エリートである国家公務員が、率先して海外の先進事例を参考にして、全国各地で同じことをやれば、日本も発展するから、そのエリートが考え抜いた事例を全国に普及させるために、国が交付金補助金を自治体に与え、それを財源に自治体がほぼ全国一律の施策を展開していた。

 各自治体では、各地域の実情を踏まえたアレンジも多少はしていたかもしれないけれど、基本的には、国が各事業者の補助申請を対応していると手間なので、自治体に申請事務を代行させていただけ。

 

 たとえば、ここ数年、昭和40年代に建てられた公共施設の老朽化が全国で問題になっているんだけど、どうも、その時代に国は公共施設建設を相当、推進していたっぽい。

 1つには、地域産業としての建設業の振興、という目的があっただろうし、もう1つは団塊世代の都市部への移動(東京圏に限らず、うちの街でも周辺農村部からの流入が相当あった)や旧市街地生まれの住民が郊外に「マイホーム」を求めたことで、新興住宅地が形成された時代で、郊外部の住環境改善、という側面から。あるいは都市の過密化抑制のために、率先して郊外を開発させたかったのかもしれないけれど。

 この辺の施策は既に、国が言うことを鵜呑みにしてよいのか、疑うべき時代が来ていた、と思うんですよね。

 

 翻って現代社会では、後半で木下さんも指摘しているとおり、国の職員がきちんと施策立案できるほど、先進事例に精通し、その成功要因を分析できているのか。あるいは、工業分野でもよく言われるように、西洋諸国に追いつき、西洋とは違う東洋的価値観も明らかになった現代で、日本がそのまま真似をすればよいようなモデル事例など、本当にあるのか。

 さらに、本当に地方創生、ということを考えたとき、国が主導する全国一律の活性化策としては、個別地域の差異を尊重するために、具体的な施策から相当程度、抽象化が必要であり、先進事例の共有、普及策として、使い道などを細かく規定する必要がある補助金、という制度が即しているのか。

 

 一方、国が頼りにならないとして、従来、国が示すモデル事業や、過去の事業を踏襲するだけで、自発的に政策立案してこなかった地方都市の自治体職員が、真に必要な課題解決策を独自に立案できるのか。

 もちろん、このインターネット時代、地方都市にいても海外を含めた先進事例をいくらでも漁れるし、メールやSNSで直接、担当者にアクセスすることもできれば、高速鉄道や飛行機、ビジネスホテルの普及で現地に行くハードルは低いのだから、自分たちの街に当てはめたときに何が参考になり、何を変えるべきか、ちゃんと研究している職員も、全国の自治体を探せば少しはいるだろうけれど、では、年功序列型人事制度を採用する地方都市の自治体で、彼/彼女の立案を受け入れる素地が上層部に、すなわち自分で考えたことがないベテラン職員にあるのか。

 

 地方自治体、という組織は(あるいは、成熟した組織というのは公民問わずどこでも)、年功序列型の人事制度を含めて、確立した事業を効率的に進めることはできても、課題解決のために、試行錯誤をしながら、新しい事業を起こしていく、ということには本当に向いていないと思う。

 

 補助金は公募開始の前に相当程度、内容を確立して制度化する必要があり、本来はその準備段階で現場と調整をしたいのに、制度化して公募するまで、中々口外できなかったり、事前調整できたとしても制度化に時間を掛けている間にタイミングを逃すことも、容易に想像できます。

 だいたい夏くらいに現場と調整できたとして、秋に課内や部内協議、それから年末年始にかけて財政担当との協議、で3月議会で予算諮って、4月頭に人事異動があって、印刷物の発注かけて、公募開始が6月、交付決定が7月、とか、事業着手まで丸々一年かかる訳で、普通に、民間側の人は自分でやった方が早い。

 まちづくり系の事業の場合、補助金使う相手がある程度、限定されるので、水面下で調整することはできるし、調整がすんでいれば、異動があっても遅れないような公募期間を設定することもできるけれども。担当職員のやる気と、それを許す上司の存在があれば。

 

 単に時間が掛かるだけじゃなく、過去や他市に例がない、本当に新しい事業になると、上司、財務、議会を納得させるための資料づくりだとかの事務量もハンパない。

 で、それだけ苦労して、新しい制度を立ち上げても、その成果が出るころには、担当者は異動してるから、そのことで業績を評価されもしない。

 だったら、既存制度をそのまま消化したり、役に立つかどうかも分からない国のモデル事業や、上司の思い付きみたいな仕事をこなしていた方が、組織人としては、圧倒的に賢いですよね。

 そんな仕事をしてて楽しいかどうかは知らないけど、少なくとも市役所には、マジメな人が多いので、「仕事なんだから楽しむなんて不謹慎」くらいに思って、こなしている人は多い気がします。

 楽しく仕事をした方がモチベーション上がるし、パフォーマンスもよくなると思うんですが。社会福祉とかと違って楽しめる分野なんだし。

 

 本来は、公務員の給料は、国からの交付金という外貨として獲得され、地方経済とは独立した給与水準によって、頭脳労働者を確保できるはずなのだから、地域の研究機関として(シンクしないシンクタンクとは違って)、先進的な取組を調査し、研究し、体系化し、自分たちの地域では、どのように取り組むべきか、を考える人たちであるべき、と思うのだけれど、現実には、補助制度以外のどんな手段であれ、結局は、硬直化した組織のために、試行錯誤をしながら少しずつ前に進める、ということが許されない組織ではある、と思うところ。

 せっかくの優秀な人たちを飼い殺すなんてもったいない、と思うんですが。

 

 「終わりに」の言葉も中々、響きます。

 

 何事も、やる人はすぐにやります。

 「何かをやりたい」と本気で思った時、人は衝動的に行動を起こします。「やりたいけど、リスクがあるからどうしようかな」なんて迷っているようなら、それは大してやりたくないことです。

 

 「やれるか、やれないか」ではありません。「やるか、やらないか」です。

 

民主主義は最悪の政治形態である

 やまもといちろうさんが、こんな記事を挙げていたのを見逃していて、

sirabee.com

 

 ご本人の下記ツイートで気付いて、読みに行くなど。

 

 この、何も分かっていない素人による投票で決める、というのが、まさに現代の民主主義が置かれている現実だし、政治に職業としてコミットするあらゆる人間(政治家やメディアや学者など。そして、もちろん、行政職員)も、このことを念頭に置いて、仕事を進める必要がある、と思うのです。

 

 個人的に市役所在籍時に考えていた市役所に課せられた最大のミッションは、今、どういう社会問題があり、それに対して、どのような対策を取ることができて、万能な解決策なんかないけど、複数の解決策のそれぞれの利点と課題を示して、課題解決の優先順位を、有権者に判断してもらう、という、いわば社会問題を考えるメディアとして、市役所が機能すべきじゃないか、と思っていたんですよね。

 本来は、地方メディアや市議会議員がやる仕事なのかもしれないけど、現実、前者は商売にならないだろし、後者も今の仕組みではそこまでのスペックを期待できないので(組織化が必要で一人でやれる仕事じゃないし、やれる人がいても、そんな人は選挙に出ない)。

 

 もちろん、社会問題を市民に提起するメディアとしての市役所、なんてことを考えて仕事をしている市役所職員には9年間で一人も出会わなかった、と言うのも、市役所を辞めた理由の1つです。

 

 今の市役所は、市民と課題について対話をする気がないと思うんですよね。

 むしろ、上記のコラムでの世論調査を見せたら、「ほら、みろ、有権者なんか何もわかっていないんだ、だから、俺たちで決めるべきなんだ」とか言い出しそうな連中は、何人も見てきたけど。

 

 だけども、僕たちは、そういう少数エリートによる寡頭政治、と言うか、世襲制の問題点を排除した新しい貴族政治の試みとして、ソヴィエト連邦が崩壊するのをリアルタイムで見た訳じゃないですか。

 1970年代後半生まれとしては、政治的に共産主義に熱狂する前に、ソヴィエト吹っ飛んじゃったんだよね。

 具体的には中学校の地理の授業で、ソフホーズコルホーズ、五か年計画とか習ったのに、高校受験時には、消滅してた、という。

 「トップガン」とか「ロッキー4」とかの1980年代アメリカ映画界に君臨した悪の帝国としてのソヴィエトは、どこ行っちゃったんすか、的な。

 

 うちらよりもっと上の世代の人たちは、ソヴィエト共産主義をもっと違う観点から見ているのかもしれないし、少しでも下の世代の人たちには、もうソヴィエトがリアリティのある現実ではなく、歴史の遺物にしか見えないのかもしれませんけど。

 

 それでもソヴィエト以外の例を探せば、たとえば、戦前の、金はないけど、知性はある地方エリートの立身出世手段としての陸軍士官学校、という存在があって、当時の世論が、政治家よりも潔癖な陸軍将校に期待し、当の憂国の志士たるエリート将校たちが、組織として結果的にどういう事態をもたらしたか。

 それを考えれば、僕は個人的に、少数エリートによる専制よりは、民主主義が必要なのだろう、と思います。

 

 Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time

 (ムカつくことも哀しいことも多いこの世の中で、今まで色んな政治制度が試みられてきたし、これから先も試されていくんでしょう。民主主義が完璧だとか、万能だとかいうフリをしても仕方ないじゃん。マジで民主主義なんか、最悪の政治体制だって、今までさんざん言われてきたっしょ。それでも、過去に試されたどんな政治体制よりもマシなんすよね)

 

 第2次大戦の勝利国であるイギリスの戦争指導者、ウィンストン・チャーチルによる1947年の国会演説ですが、実はイギリスは、対独戦争終結後の1945年6月、対日戦争終結を待たずに、国会解散して総選挙が行われ、そこでチャーチル率いる保守党は大敗しているので、実はこれ、戦勝国の指導者としての発言と言うより、野党党首としての発言なんですよね

 …と言うのを今、引用するために探してきて気付いた。てっきり、そのまま首相やってて言ってるのかと思ってた。

 

 

 

 

世の中には怖い職場があるんですねー

 ダイヤモンド・オンライン、見に行ったら、なんとなく人事系の記事が目に留まって、読み始めたら、その連載のバックナンバーの方に、もうちょい気になる記事があったので、ちょいと紹介。3月の記事です。

 

 自分なりに思いっ切り要約すると:

 「女性が輝く職場!」みたいな触れこみで、今、そこそこキャリア志向の高学歴女性に注目されて、入試倍率が上がっている某企業の元社員。

 実際には入ってみると、社長も幹部職員も女性を活用する気は、さらさらない。社長の価値観を伝え、合わない社員は辞めればいいし、見込みがあるごく一部の社員は、女性ならではの仕事と言うより、男性と全く同じ幹部候補として抜擢する。

 大半の女性社員は、違和感を覚える前に、周辺の企業と比べて居心地の良さに慣れて残り続けることになり、やりがいのある仕事など与えられず、結婚・出産を機に体のいい安価なスタッフとして雇用切替される。

 しかし、この会社の居心地の良さはベンチャーとしての業績に裏打ちされたもの。社長の価値観共有を求め、同質性を高めている、この会社で将来の居心地の良さは補償されるのか。

 …という感じ。

 

diamond.jp

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 うーん、個人的には、これからの組織は価値観を共有できる人だけが集まって、そうでない人は離れていく、というのは、ある意味、望ましい形だとも思うんですよね。

 よく言われるように、日本型企業が村落共同体が都市化によって崩壊した後、人をつなぎとめるイエ的共同体の役割を果たしてきた、という時代は終わって、企業の中で多様性を求めるよりも、市場全体として多様性が保持されれば、企業の中は画一化が進んでも仕方ないんじゃないか、と。

 村社会的な企業が解体したから、より組織内で多様性が認められるか、と言うと、それは組織である意味がなくなるので、今後は逆に、単に籍を置いている、以上に共有できる価値観が必要なのだろう、と。

 同質化が進むと、新しいことは起こしにくくなるかもしれない。でも、その結果、環境変化に対応しきれなくなった企業は撤退し、新しい価値観に基づく新しい企業がサービスと雇用を代替すればよい。

 

 問題なのは、労働市場流動性がそれほど高くないので、自分に合わなくなった、合わないと気付いたときも中々、辞めづらいし、辞めた後も、適切な組織とのマッチングがしづらい。一度、辞めてしまうと、切替コストが高くつく。

 だから、これから入る組織が自分に合う組織なのか、慎重に見極める必要があるのだけれど、企業の側は、その価値観を内部統制に使っても、外側には正しく発信していない。

 実際には、できるだけ多くの人員を採用して、合う人間だけを伸ばし、合わない人間を飼い殺しにする、という採用スタイルよりも、企業の側も正しく価値観を発信した方がコストが低く済むんじゃないか、と思うんですけどね。

 そこは企業の側が、悪辣なだけではなくて、、正確に自分たちを表現しきれていないだけ…と思うのは、性善説すぎますかね?

 

 翻って、地方都市の市役所について。

 1つは、市役所職員の同質性をどう考えるか。多分、上が意識しなくても、終身雇用、年功序列型の人事制度の中で、同質性の高い人間しか抜擢されないので、ほっといても同質性は高くなるよね。

 少なくとも、前の職場を振り返ると、あの人たちが狙って、こうしている、できるだけの手腕があるとは思わないのだけれど、偶然、世の中の仕組みとして、同質性が高まりやすい組織だったのだろう、と。

 まあ、今までの市役所には、間違って採用試験に受かってしまった異分子を抱えておく余裕があったので、幹部以外の職員、メインストリームじゃないところでは、そういう人間の居場所はあったけど、今後は、厳しくなっていくんだと思います。

 

 となると、同質性がさらに高まった市役所が、市場に晒されないなかで、環境変化にどう対応するか、という問題があるけれども、それは選挙によって選ばれた市長が変えていくしかないのではないですかね。

 ただ、選挙によって、市長が変わっても、具体的な事業を動かす段階で、肝心の職員を動かすときに優先するべき価値観は、市長の価値観(≒その後ろの背後にいる有権者の価値観)ではなくて、組織の、古参職員の価値観、ということになる。

 国政では、民主党はそこで躓いたのだろうし、そして前の職場の市長さんは、そこをひどく気にしていたようですが。

 どっちを向いて仕事をしてんだ? と思いますが、現実に物事を進めるためには、理想ばかりを言ってても仕方ないんじゃないですかね。人間だもの。

 

 だから、考え方は2つあって、1つは市役所は環境変化にはひどく遅くしか対応できないので、スピードが重要な案件は市役所に任せず、市場で解決する、というのが1つ。

 もう1つは、市長が変わるたびに、職員も価値観を共有できる人間に入れ替える。全員一度に替えるのは、さすがに無理でも、任期が4年なら、4分の1ずつ4年で全員入れ替えるくらいのことは、できると思いますが。

 もちろん、辞めた後の職員の雇用をどうするか、と、その裏返しの問題で、次に職員になる人間をどう確保するか、という問題はある。本来は、労働市場流動性が確保されて、民間企業で雇える形が一番、理想的なのだけれど、専門性とかを踏まえると、地方議員が政策集団を形成して、本当の意味での地域政党とかの職員として雇う形ができるなら、そこに公費を入れてもいいんじゃないの、くらいには思うんですよね。

 少なくとも、全職員一律に、と言うのが雇用市場の規模としてさすがに無理であれば、政策・企画系の一部の職員や、あるいは管理職だけでもね。

 まあ、基本的には、今の自分のスタンスは、市役所は環境変化には、尻尾を踏まれた恐竜くらいの遅さでしか反応できない、という考えです。

 

 もう1つは、女性が働く場所としての市役所について。

 これはもう、やりがいとかを過度に求めず、適度な居心地の良さを求めたら、地方都市では絶対、おすすめの職業なんだ、と思いますよ。上記の記事で表現されているような、ぬるま湯の職場として。倒産もないし。

 あとは、そういう職場だと割り切って生きることができるか、身動きの取れるうちにもっと違う可能性を探すか、ということですが、女性の方が現実的だから、なんか理想とか捨てて普通に対応できるんじゃないでしょうか。

 つらいことがあるとすれば、臨時職員の優秀なお姉さんたちと机を並べて、同じような仕事をしているのに、向こうは給料が自分の半分、という現実に、人として耐えられるか、という良心の問題は、まあ、あるかもしれない。

 でも、それも、向こうが新卒で市役所を受けなかった/受からなかったのが悪い、と言って自己正当化すればいいだけのことじゃないかなー。