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日々の仕事に必要な調べ物の結果や個人的見解を備忘録的に書いておくと他の人に役立つこともあるかも、くらいのノリで。対象範囲は人口構造、社会保障費、都市計画、行政運営、地方自治あたりになろうかと。

今さらジェフリー・ムーア「キャズム」読んだよ

 エヴェレット・ロジャースの「普及学」をハイテク業界に当てはめ、普及のフェーズが切り替わるタイミングで陥りがちな溝=キャズムについて解説する、ジェフリー・ムーアの「キャズム」、やっと読み終わった。

キャズム

キャズム

 

 

 元々、この本の存在自体は結構、前から知っていて(多分、リリース前後くらいに)、その後、産業振興担当してた2010年くらいに一度、読もうと思いつつ、結局、買わず、2013年に部署が移って、ライフスタイル提案みたいな仕事をやるようになったので、2013年の秋に買っていたのだけど、それでも中々、手が付かず、今、やっと読み始めて、さすがに事例が古いな、と思ったら、実は2014年秋に、新版が出ていた、というくらいの今さら感。

 

キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論

キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論

 

 

 タイトルがややこしいのだけど、元々、この本、1991年にアメリカで出版され、ハイテク産業を扱っている都合上、収録しているネタが古くなってきたため、99年に事例を全面的に更新した改訂版が出版され、02年にこの改訂版を底本とした初の日本語版が出ているので、今回改めて事例を再構成しなおしたという新版は、日本語タイトルは、ver2になっているけど、実際、第3版。

 で、自分が読んだのは、古い方。

 

 産業振興担当時代に敢えて読もうと思わなかった理由としては、対象がハイテクじゃない、と言うことよりも、地方都市の中小企業の場合、結構、ニッチ戦略で食っていけたりするから。

 たとえば、単価3,000円の商品を年間100万個生産できる企業があったら、単価を小売値と考えても、その企業の卸値での売上は10億くらいいくし、単価を卸値と考えれば30億とか、ウチの市内では立派な企業ですよ。

 でも、年間100万個って、日本国内だけで売ろうと思っても、全人口の1%にも満たない。世帯で1つの商品、と考えても、3%くらい。

 なので、別に日本人全員に認知される必要もないし、海外に市場を求める必要もなく、ひたすら少数とのコミュニケーションを図る、という戦略も充分、成り立つ。

 

 一方で、異動後の部署は、市民全体、それこそ普段、積極的に市の広報紙を読み込んだり、市の事業に手を挙げて参加したりするような人とは違う人たち、知り合いに市議会議員がいたりしないし、自分も市の審議会委員を委嘱されたりしないような人たちに、どう提案していくか、という仕事だったので、この本で言う「キャズム」を乗り越える必要があるかな、と思った次第。

 ま、結局、その仕事をやってる間に読まなかった訳だけど。

 

 ムーアは普及学で言うところの、イノベーター、アーリー・アダプター、アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ、ラガードの5階層をそれぞれ、テクノロジー・マニア、ビジョナリー、実利主義者、保守派、懐疑派、と言い換え、前2つにアピールすればよい「初期市場」と、後者3つに売り込む必要がある「メインストリーム市場」では、全く異なる戦略が必要となることから、その市場の間にある溝(キャズム)に落ち込む危険性がある、と指摘する。

 初期市場は商品の価値そのもの(たとえば技術力の高さや目新しさなど)が理解されれば受け入れられるが、メインストリームの市場はそうではない。着実な成果を約束する必要がある、と。

 

 まあ、本当に読んでいたら、さすがに15年前の事例(特に、Win95リリース以降、めまぐるしく変化するハイテク分野の世界)なので、イマイチ実感を掴めない事例や、これは本当に成功と言えたのか、という事例もあったりして、これは次の版が出て当然、と思った次第。

 読む前に気付いていれば買い直したかもしれないけど、事例が集中して出てくるのは、中盤以降なので、そこまで読んでやっと新版の存在に気付いたので。

 

 とは言え、一方で、特に前半部分、市場の階層構造を解説するあたりを中心にして、マニアとビジョナリー、実利主義者がそれぞれ、どういう行動基準、判断基準を持って商品を選択するのか、という点に関しては、読む前に期待していたとおり、別にハイテク産業に限らず、一般的な普及学の解説書として、興味深い。

 商品やサービスの提供、という視点で書かれているけれど、政策の提案、あるいは価値観や人生観の問題意識を明確にしてもらい、選択してもらう、という考え方でも、当てはまる部分は大きい。

 

 個人的には、51%を占めたものが正義、という「51%教」の教義は全く民主主義的ではない(全体主義でしょ)、と昔から、小学校のときから思っているんですよね。

 本当の民主主義とは、基本的人権の尊重に重きがあり、一人ひとりが自由に考え、行動できることに最大の価値があるのだから、多数派が数に物を言わせて少数派を弾圧することは絶対に許せない、と思っているんです。

 たとえば、小学校の学級会とか、小学生くらいだと周りの子供たちより自分の方が明らかに知識の量も広さも論理的思考を積み上げる力も優れていて、ある視点から自分が問題提起をすれば、クラスの議論なんか一瞬で引っくり返せる、という状況を何度も経験してきたから。

 と言うか、ときには、自分としてはどっちでもいいような議論だったりすると、敢えて狙って少数派に付いて(と言うか、主流派の欺瞞を指摘して)、議論を混乱させたりもしていたから。

 

 人がAかBかを決めるとき、あるいはAをするか、しないか、を決めるとき、判断する人たちは、正しく問題を設定して、問題を判断するために必要な情報を正しく集められているのかどうか。

 その正しい判断力を持っていない人たちがいくら集まって議論をし、投票しても、その答えにどれだけ意味があるのか。

 

 もちろん、旧共産圏に憧れる年齢になる前に、その崩壊をリアルタイムで見てきた世代としては、テクノクラートによる独断専行の危険性も承知しているし(歴史&軍事マニアなので、旧軍関係資料もそれなりに読んでいるし)、小学生と違って、自分が常に正しい判断を下せるだけの能力があるとも思えない。

 

 だから、多数決を信奉する人たちが、どうせ誰も正しい答えなんか出せないんだから、たとえ失敗しても、みんなで納得できるように、とりあえず多数派の意見を採択しよう、と思って多数決を信じるなら、それはそれで1つの考え方だとは思うんです。

 多数派の意見であっても間違うことはあるので、上手く行かなくなったら、また投票して、変更をかければよい、と思っているなら。

 ただ、世の中には、多数派が支持することなんだから、間違っていないんだろう、赤信号みんなで渡れば怖くない、と言うか、自分だけ渡らない方が怖い、という発想が、どうにも根強い、と少なくとも自分の目には映ってしまう。

 

 話が大きくずれてきましたが、「キャズム」に戻る。

 何か新しい物事を起こすとき、これまでのやり方を改めるとき、本当に51%の多数派は、その解決策を理解しているのか。

 何か新しいAかBかを選ぶのであれば、それぞれの意味を明確に説明し、同意を得るべきではないのか。

 多数派が理解しない上での投票に意味があるのか。あるいは、その投票の意味を(責任は共有するという消極的選択だと)みんなが理解しているのか。

 

 51%教の人たちは、きっとそう思っていない。

 多数派が選んだものは常に正しいと思っている。

 

 だから、民主主義国の政治は、新しいことを正しく始めることなどできないし、むしろ正しく始められず、修正もできないのなら、政治は新しいことに手を付けるべきではない。

 少なくとも、自分たちが政治の、社会問題のプロフェッショナルとして、有権者に課題を明確に提示し、同意を取り付ける、という意思がない集団なのであれば。

 本当に世の中を変える新しいことは市場の中で実験され、確実に社会に貢献する、という実感を51%の人たちが持った段階で(それは、つまり、もはや新しいことではなく、標準化されつつある取組として)、政治に移すべきではないのか。

 

 そう思ったのも市役所を辞めた理由の1つなので、この本を買ってすぐ読んでいれば、もっと早く辞めたかもしれません。

 辞めた後で読んで、あの組織は口で何と言おうが自分に向いてる組織じゃないと改めて思いましたが。

「裸の王様」の言ってることを改めて考えてみたんだが

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Emperor_Clothes_01.jpg

 

 アンデルセンの「裸の王様」を最初に知ったのが、本だったか、保育所の紙芝居だったか、NHK教育のアニメや人形劇だったかすら、記憶が定かじゃないんだけれど、とにかく、今まで30年以上、ずっとあの話が説いているのは、

 

 「オトナになると空気に流されて本当のことを言えなくなるけれど、客観的事実は批判を恐れず主張すべきだ」

 

 という教えだと思っていたんですよね。本当に。

 

 裸の王様 - Wikipedia

 

 とは言え、アンデルセンの発表から200年近く、アンデルセンが引いたオリジナルのスペイン文学(は、読んだことないけど)は14世紀初頭の作品だと言うので、700年間もこの話が廃れずに受け継がれている、と言うことは、多分、そういう話じゃないんだな、と今さら気付いた。

 これだけ基本的人権が広まって、言論の自由が認められ、科学的合理的態度と民主主義が普及して、一部の権威者の主観で処断されずに、言うべきことを言える社会になっても、ちゃんと言いたいことを言って生きている人が圧倒的に少ない現実を考えると、多分、「言うべきことを言おう」、という話なのでない。

 

 で、改めて読んでみて思ったこと。

 多分、人は偉くなると「降りる」ことが難しくなって、何となく間違っていると思いつつも軌道修正できずに、そのまま間違った行いを進めてしまう、という要素が1つ。

 もう1つは、組織内部(特に階層型の組織)で認められたいと思っている人間は、権威者が間違っていることをしても、権威者を守るため(あるいは自分が権威者の機嫌を損ねたくないため)に、それを指摘せず、結果的に権威者により大きな損失を与える。

 

 もちろん、民主主義社会では、「降りる」ことができない権威者とは、特定の一人ではなく、会議に出席している一人一人の平凡な個人(の集合体)であることもあるだろうし、守るべき権威者というのも、その組織全体であったり、その組織が責任を担う顧客や消費者、あるいは社会全体、ということもあるんだと思いますが。

 

 いや、どこか特定の組織や人物を思って書いてるわけではなく、一般論としてね。

 

 青空文庫―はだかの王さま

 

 ※ブルーハーツの「裸の王様」を探してきてリンクを貼ったりとかするわけないじゃないですかー

 

追記:

 Wikipedia辿ってたら英語翻訳版のスペイン語原典「ルカーノル伯とパトローニオによる模範とすべき本」のうち、「7章 国王と3人の詐欺師に起きたこと」があったので、読みました。

www.elfinspell.com

 

 そもそも、ドン・ファン・マヌエルという人は、カスティーリャ王国の王族に生まれて、複数の王に仕えた人で、特に年若の王の摂政も務めた、と言う人で、その王のために書いたのかは分かりませんが、この本は、君主が気を付けるべきことを、王が家臣に質問し、家臣が例を挙げて答える、という形式で説いているようです。

 

 で、この話の場合は、「外部の人間から、『役に立つ助言をするが、他には漏らしてはならない』と言われたら、どうすべきか?」という問いから始まり、説話を受けて、結論として、「他人を信用するなと言う者、秘密を求める者には欺かれないよう、注意が必要です。その人間が自分の利益よりも、あなたの利益を重視する理由はなく、その人間が、あなたに恩義を受けた人間やあなたに長年仕えてきた人間よりも、あなたに貢献する理由などないから」で締めて、さらに筆者が、「秘密の助言をする者は自分の利益のために、あなたを罠にはめようとする」と教訓を記して、終わっています。

 

 封建時代なので外部者よりも部下を大事にしなさい、と言う話なんだと思いますが、この話では、家臣も全員、自分の身分を守るために王を裏切っているのであって、問題の根幹は、冷静に最適解を出すに当たって、誰を、あるいはどの意見を信用し、どう議論を積み上げるか、と言うことではないかと思いますけどね。

 

 そもそも外様の国王で、最初から信用できる部下がいない人(本人は信用してるつもりかもしれないけど、裏切る気満々の連中が周囲を固めてる人)とか、誰の言うこと聞くの?

大組織の限界と組織で生きるリスクの件で

 今朝、中央大教授の竹内健さん(@kentakeuchi2003)が紹介していた東洋経済の記事3本。

 

toyokeizai.net

toyokeizai.net

toyokeizai.net

 

 1番目のシリコンバレーうんぬんの記事は、ふーんと思いながら読んだけど、3ページめくらいで挫折した。なんか、自分には関係ない世界の話だな、と。

 

 2つめの木下さん(@shoutengai)の記事は、普段から木下さんが言及していることで、新しい事業を起こすときに、合意形成を重視してると、結局、何も前に進まない、という。

 この辺は、エヴェレット・ロジャースの普及学や、ピーター・ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」とかでもそうですが、まず、そもそも基本的に新しいこと、と言うのは、他人に理解されないものなんですよね。

 特に、地域の中を変えていく事業の場合、現状、何かしら上手く行ってないことがあって、それを上手く行ってない、と否定して課題を明確にしない限り、解決なんかしないので、これまで地域で一生懸命やってきた当事者の人たちは、中々、合意しにくい。

 いや、本人は意外とそれが問題だって気づいてたりするんだけど。特に、地域の集まりに出てくるような、会の長をやってるような人たちは、それなりに優秀だったりするので。

 

 ただ、難しいのは、市役所主導でプロジェクトチームを立ち上げたりすると、だいたいが能力や意欲ではなく、○○組合の組合長とかに、いわゆる「当て職」で出席を依頼するので、あんまりいい会議にはならないですよね、経験上。

 1つには、その組合の事業領域としては、当該プロジェクトに関連するんだけど、そもそも組合の設立趣旨とプロジェクトの目的が合致してない場合。あるいは戦後、長い時間が経つ中で、そもそも設立趣旨自体が形骸化してたり、時代に合わなくなってたり、組合員も訳も分からず加盟してるだけだったりするのだけど、単純にその業界の過半数を占めてるから、声を掛けざるを得ない団体。

 もう1つは、前述のとおり、組合長さんはそれにふさわしい力量、見識を持って業界全体の将来を憂いているのだけど、一消費者、一市民としての自分の見解、経営者としての見解、業界全体の代表者としての見解には、矛盾があって、会に呼ばれたときに、どのポジションで発言していいか迷ってしまって、当たり障りのない意見しか言わないケース。

 で、こういう人たちを前に、市役所の若造や外部のアドバイザーが、本質を突くことを言うと、自覚がある人たちでも(自覚がある人たちだから?)、まあ、面白くはない、と思うんですよ。

 

 自分の経験で言えば、既存事業を大きく変えて、新しいものにしていくときには、既存事業に関わってた人たちの中でも、やる気のある人たちだけを選んで、それから、今まで関わってなかった人たちの中で使えそうな人たちを巻き込んで、新しいチームを立ち上げるのがいいんだと思います。

 

だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。

 

だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

マタイによる福音書(口語訳) - Wikisource

 

 もちろん、小さなチームをバラバラと立ち上げると、ムダが多いので、チーム同士の緩やかな連携を図るべきだし、常に間口を広くして、やりたい人が入ってきやすい状態であったり、外部の有力者にも何をやっているのか見える状態をつくっていくことは大事かなー、と思うのですが。

 ※外部の有力者に見えるようにしておくのだから、批判はされるでしょうが、批判されたときに、「それは分かっててやってるので気にしない」という部分と、「なるほど、そういう見方もあるか」という部分の整理を上手くやっていく必要があるんだろう、と思います。

 

 それから、民主主義社会の地方政府たる市役所が、本当に住民合意を得ないで新しい事業をやっていいのか、という部分はあります。

 その点については、個人的には、1つのやり方として、ごく小さなプロジェクトは、あくまで民間のやる気のある人たちに提案するか、彼らの提案を受けて、民間のプロジェクトを市が支援する形で進める。資金的な支援もそうですが、そのプロジェクトが回っていく段階で、有力者に事業の趣旨を説明し、説得していく、と言うのも市役所の仕事ではないかと思います。

 説得すべき有力者というのは、当て職の有力者もそうですし、主婦グループの拡声器的な、表向き役職を持っていないけど影響力のある人の両方に対して。

 訳の分からない市民が勝手にやっているのではなく、市役所が、論理的に説明してくれる、ということは、市民の理解を得る上で、有力な手法なんですよね、やっぱり。

 

 もう1つは、本当に大きいプロジェクトの場合は、それは市議会や広報紙のような正当なルートと、有力者ネットワークへの個別の説得を通じて、本当の意味で住民合意を形成していく、ということも必要かと思います。

 ただ、後者は今の時代、すごく難しくて、やはり小さなプロジェクトで結果を出して、信頼を積み上げながら徐々に大きくしていくしかないのだと思います。

 

 だから、事実上、市役所は新しい事業の可能性について調査し、提案することはできても、民間の動きを優先すべきで、市が前に立って新しいことを起こすのは、違うかなー、と。そう思ったのは、市役所を辞めた理由の1つですかね。

 

 木下さんのこの本も、そのうち買うつもり。

稼ぐまちが地方を変える―誰も言わなかった10の鉄則 (NHK出版新書 460)
 

 

 3番目のサッカーの記事については、要するにゲームのルールをどう理解するか、ということだと思います。

 当たり前ですが、市役所の人たちはルールに忠実な人たちが多いんですよね。

 けど、もし、ルールどおりにゲーム運びをするのが自分(たち)にとって不利ならば、そのルールを変える努力をするよりも、ルールの解釈を変えてみて、ルールから逸脱しない範囲で、オーソドックスではない、邪道かもしれないけれど、結果につながるゲーム運びを試みる、とか、そもそも、そのゲームからは降りて、別の土俵を作るかしたら、いいんじゃないの? と思ったり。

 相手の土俵に乗るのではなく、自分たちが戦いやすい土俵を作り、相手をその上に引きずり出す、と言うのは、ビジネスの場合、当たり前のことだと思うのですが、大きい組織の中で出世する優秀な人と言うのは、まあ、そういう発想はしないんでしょうね。

 

 一方、冒頭の竹内さん自身が今日、日経テクノロジー・オンラインに掲載していたコラムも、そういう視点かと思いました。

techon.nikkeibp.co.jp

 

 組織に求められる結果を出すのは当たり前として、組織が求める結果を効率的に出すためにスキルを磨くことが自分にとっての幸せなのか? 結果を出せるのならば、余裕の部分は、それをより磨くよりも、たとえ組織内で正当に評価されないスキルであっても、自分の他の資質を磨いた方がよいのではないか。

 

 市役所に関しては、何だかんだ言って、夕張のようにリストラされたり、会社そのものが吹っ飛ぶ心配は、まずしなくてよいと思います。一生、給料と年金だけを周辺の市民と比べれば、大過なく生活はしていける、と思います。

 

 ただ、定年まで仕事があって、ある程度の退職金と年金が支給されて、それで幸せなんでしょうかね?

 今の時代、日本人は、60歳で定年した後も、もう20年くらいは平均で生きていくのに、生活に困らない貯蓄があるから悠悠自適の生活を遅れて、それで幸せなんでしょうか?

市役所、辞めてよかったっすわ、マジで

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 先週末で前の職場の来年度採用を受付終了したらしく、その件で市長がブログを更新してたのだけど、採用PR資料を見てみたら、まあ、本当に辞めて良かった。

 

 具体的に、どの辺で彼らの求める人物像と、自分の信条と相違があるかは、また気が向けば書きますが、逆に、若い人でこれから市役所に入ろうかと考えている人向けに、自分が市役所にいて良かった点を3つ。

 

 1 貯金できる

 私は院卒だし、若干、職歴加算もされてるので、大卒新卒の人より若干、給与水準高めでしたけど、9年間の手取り収入が総額で、約30百万円。

 ※あ、まだ退職金の記帳に行ってないや、、、

 やった仕事だとか、大学の同期とかのことは考えずに、小さな地方都市の勤め人、と考えれば、まあ、貰える方だと思いますので、10年くらいをメドに独立しようと思ったら、資金を貯めるのには悪くない選択肢だと思います。

 この他、私はアホらしくて途中で申請するのを一切ヤメたけど、真面目に超過勤務手当を申請していれば、平日4.75h×5d×50wで、若手でも年間1百万円くらいの上乗せは余裕でできると思います。

 休日出勤は、イベントとかで出てしまうと原則、振替扱いになるので、超勤にしづらいですし、普通に残務整理とかで出勤するのも、さすがに毎週、土日両日8時間超とかで仕事することについては、時間単価が安い若手が、そこまでやるのがプラスかってのは、自分の中で判断基準を持つべきだと思いますが。

 なにしろ、そうやって自分の時間を削って仕事をしても、一切、上から評価されないので。

 仕事として確実に成果につなげれば、自分のスキルや満足度、接点のある市民や関係者からの評価には、つながると思いますが、組織の内部では一切、評価されないと割り切ってやるべき。

 

 もちろん、だったら資金づくりは東京でガシガシ働いてもっと短い期間でやってしまう、という選択肢もあると思いますし、市役所の年功序列型の賃金制度は当面崩れそうもないので、定年まで市役所で稼いだ金を時間外の活動に突っ込み続ける、という方法もあると思います。ただ、後者については、兼務制限とかで自由が効かない面もあるし、そもそも拘束時間がムダなので、この辺でもう辞めた方がいいな、と思うようになる、と思いますよ。

 

 2 優秀な人との接点を得られる

 これは配属された部署にもよるので、異動希望を出せる役所であれば、積極的にそういう部署への配属を希望した方がいいと思いますが、市役所と一緒に仕事をする民間の人は、平均的な普通の市民、と言うよりは、やはり地域を代表する人たちが多いので、「学校の勉強ができる」的な意味に限らず、優秀な市民の人と知り合うことはできます。

 委託契約を結んで仕事をする人たちも、下請け的ではなく、特殊技能者やアドバイザー的な専門家であれば、圧倒的に優秀な人たちと一緒に仕事をすることもできます。

 もちろん、専門家でも、行政としか仕事をしたことがないようなタイプの人だと、マインドが役所と変わらない、か、直接、市民に文句を言われることがない分、なおタチが悪くて、各自治体をイナゴのように彷徨する焼畑農業的な人もいるみたいですが。

 優秀な人たちと接点をもって、仕事ぶりを見たり、モノの考え方を学ぶことで、自分のスキルアップにつながる、と言う点はもちろん、次の展開に踏み出すときにも、色々と力になってくれる人もいると思います。

 もちろん、市役所の看板が外れた後もどれだけ付き合ってもらえるかは、市役所時代の仕事ぶりが影響するのだと思いますし、これは狙ってできることではなくて、後からついてくるものなのだと思いますが。

 

 この点、別に市役所にいなくても、今の時代はSNSとかが発達しているので、いきなりメッセを送って会うことはできる、とも思います。

 ただ、いきなりアポ取って会う、にしても、市役所職員の立場だと、市民のキーパーソンであれ、外部の専門家であれ、圧倒的に信頼感があるので、会ってもらいやすいですし、ただ会って話をするだけじゃなくて、予算ついて事業をやれれば、やっぱりプロジェクトを一緒にやれた方が、仕事の仕方にしてもお互いの人間性についてもより深く共有できると思いできます。

 

 市役所の中の人で、参考になる人…は、自分の場合は、多分、そもそも求めてる価値観が違いすぎたせいだと思いますが、ほとんどいなかったなー、と。

 

 3 プロジェクトのノウハウを積める

  これは、そもそもプロジェクトやれない部署もあるし、自分で意識して取り組まないと、市役所の場合は、クソみたいな結果に終わっても、少なくとも市役所内部からは何のフィードバックもないので(協働した外部の人は、改善点を訊けば言ってくれるけど、わざわざ言ってくる人はレア)、どれだけ積めるかは自分次第ですが。

 ただ、少なくとも、市役所がどういう仕組みで動いているので、市役所の外に出たときに、市役所とどういう付き合い方をすべきか、ということは学べるのではないか、と思います。

 

   ※    ※    ※

 

 基本的に、自由を尊ぶ民主主義国の政府なので、この成熟した社会では、今後ますます地方自治体でやれることは限られてくると思うので、あんまり、市役所の仕事自体に、やりがいとかは求めない方がいいんじゃないでしょうかね。

 本来は、国主導→地方自治への過渡期において、いきなり地方の民間部門に任せるよりも、中間形態として、地方自治体が果たせる役割は大きいと今でも思っていますが、実際に、そのように動ける自治体や、自治体内のプロジェクトは少ないのが現実ではないでしょうか。

 市長や幹部職員とかが、そういうことをしようと本音では思ってないからね。あるいは、やれたらいいな、くらいには思っていても、やるために必要なポイントを本気では考えていないから。

 

 まあ、やりがいについては、評価もされないけど、批判もされない組織なので、時間と金をムダに掛けて、結果、周囲は何も変わってないけど、自分たちの達成感だけはある、という、中学高校の文化祭や体育祭みたいなプロジェクトであれば、やるチャンスはたくさんあると思います。

 なんらビジョンを持ってない上司や他部署からのしょうもない横やりに振り回されて嫌な思いをすることもあると思いますが、まあ、自分たちの非力さではなく、そいつらのせいで失敗した、と思えるし。

 

 あと、やりがいを求めないのであれば、定年までお金を貰いながら大過なく過ごす場、としては、時給800円くらいの優秀な臨時のお姉さんの仕事ぶりや、市民からのクレームなんかにも、鈍感力を発揮してスルーできれば、最初にも書いたとおり、地方都市では高収入な職場なので、よい職場だと思います。

ビリギャルの表紙の人の件で

  普段、書いてるテーマと違いすぎるんだけども、ライフハック、という意味では、まあ、当てはまるからいいや、的な。

 

 で、ビリギャルの映画版が公開されているそうで。

 

birigal-movie.jp

 

 この話、最初に、storys.jpでバズってたときに読んだけど、その後、書籍化以降の流れとかは、全然、追ってなかった。本屋で平積みしてあるのは見かけたけど。

 ※その点、「電車男」と同じくネットでバズることと、リアルでバズることの違い(マーケットの大きさとか)を見せつけられる感じはある。

 

storys.jp

 

※以下、本題に入るまで自分の立ち位置の説明が結構、長いので急ぐ方は、この辺まで読み飛ばしていただいて。

 

 で、storys.jpで読んだときの感想は、遠い昔のことで忘れかけてはいるけれども、書いているのが塾の先生で、学校の勉強ができないけどやりたいって子に対して、どうやったらできるようになるか一緒に考えるのは、教える側の目線では、まあ、興味がない世界ではない。

 自分も周りに勉強教えてくれと頼まれたり、個別指導の塾講師をバイトで実際にやったりしたこともあるので。

 多分、何かモノゴトが上手く機能していないとき(この場合、勉強する気はあるのに成績が絶望的に悪い)に原因と対策を考えて、それを上手くいかせる、ってエンジアリング的な対象として、興味がある/あったんだと思う。

 

 一方で、人に勉強を教えてくれって頼まれたときにもそう感じるし、この話や「ドラゴン桜」みたいな受験ネタに接したときも、そうなんだけど、実際問題、自分は偏差値を40も上げられるレベルまで(つまり30前後まで)偏差値を下げたことがないので、勉強ができない人、勉強をやって成績を上げた人には、中々、感情移入できない。

 学校の勉強は、まあ、そりゃ地方の公立小中高出身なので、周囲に比べたら、全然、やってないってことはないんだけど、それでも勉強できる子たちに比べたら、教師からいつも「お前、少しできるからって、ナメてるとそのうち痛い目に遭うぞ?」と言われるくらい、勉強しなくても成績は常に上位にいたので。

 一方で、体育の授業とか球技大会とか部活とか運動会とかでは「本気出せよ」と言われても、いやいや、出してるし、これ以上、努力できたとしても何も変わらねーよ、と思っていたし。

 だから、自分の中では、努力をしたら世界が変わった、的な世界観に対して、本当に共感ができない。

 

 なので、本人のその後とかも記事化されてるらしいんだけど、特に興味はなくて追っていなくて、2chでこのネタになると、以下のような感想が出るらしいんだけど、まあ、この展開になるのは理解できる(笑)

「元々お嬢様だし地頭がよかったんだろ」

「受験科目が英語と小論だけの馬鹿SFCかよ」

慶應総合政策学部くらい誰でも受かるだろ」

「大学から慶應のくせに偉そうだな」

慶應とか所詮私立だろ。東大に受かってから言え」

慶應卒業してもブライダル会社にしか就職できなかったのか」

 

 で、そんなことは、どうでもよい。

 以下、やっと本題。

 

 本の表紙を平積みしてあるのを見たときは、てっきり本人の昔の写真なのかと思ったけども、そうではなくて、モデルさんなのだ、というのは、どっかで見て知っていた。

 けれども、そのモデル、石川恋さんの話の方が、ビリギャルよりは、より多くの人に共感を持てるのではないか、と今日、本人のブログを読んでて、思いました。

 

ameblo.jp

 

 タイトル「こいのきせき」って読んだけど、「れんのきせき」で自分の今まで、つう意味ですね。

 

 いや、ビリギャルの話の功罪って、日本人はそういう話が大好きだけれども、努力をしたら報われる、的な話は、結構、無責任だと思うんですよ。

 

 彼女のブログを読んでも、この表紙の仕事をするまで、夢に向かって努力をしても全然、報われてなくて、この表紙の仕事でようやく自信をつかむのだけど、それじゃあ、この表紙のために特別な何かをしたか、と言うと、そうでもない。

 でも、大事なことは、結局、そういうことだろう、と思うのですよね。

 

諦めるタイミングなんてたくさんあったと思います。

でも諦めない決断をするタイミングってきっと少ない。

 

 仕事を続けていくのが簡単な世界ではないけれども、賢い子だとは思うので、是非、自分のやりたいこと、得意なことを見極めて、歩いてってほしいな、と思いました。

 

 以下、本人ブログ記事もう1本と雑誌取材2本。

ameblo.jp

mdpr.jp

wpb.shueisha.co.jp

 

 髪、黒い方がいいと思う!

これからの市役所の人に考えてほしいこと。機械技術の進展と人間の役割について

 なんで市役所を最終的に辞めることにしたのか、というと、「市役所がやりたいこと」と「自分がやりたいこと」がある程度は一致していると思っていたのに(少なくとも齟齬があっても調整可能な範囲で)、彼らがそれをやりたいと言ってるだけで、全然、やる気がない、あるいは、本当はやりたいのかもしれないけど、どうやってやればいいか分かってないし、分かるための努力もしてない、だから、一緒にやれることはないですね、という話。

 じゃあ、やるべきことって具体的に、どういうこと? どうすればできるようになるの? ってなると、いくつかの事象が複雑に絡んでいて、自分の中でも、どれが原因でどれが結果なのか、いまいち整理できていない部分もあって、この1か月、書きあぐねてた。

 自分は辞めてしまったし、一人の市民としてはそこは市役所に頼らず生きればよい、と思っているので、別にそこを究明する義務もあまりないし。

 

 ただ、書いておくと、1つには、今、市役所に残っている人たちや、これから市役所に入る人たちが仕事をする上で、どういう視点を持つべきか、という参考にはなると思う。あるいは自分と同じような辞める時の判断基準の参考として。老婆心ながら。

 また、自分が次の仕事をやるに当たっても、1つの行動基準にはなると思う。

 それから、一人の市民としても、市役所に何を期待すべきか、何を期待すべきではないか、地元の市役所が期待できる存在なのか、遠ざけるべきなのか、を判断する基準にもなる。

 

 と言う訳で、いくつかの要素について、まだ、整理できていないのだけど、こないだネットで見かけた記事が、そのうちの1つに言及しており、大事な論点を含んでいたので、引用しておく。

business.nikkeibp.co.jp

business.nikkeibp.co.jp

 

 1997年以降、デジタル技術の発展で、アメリカでは急速に産業が発展し、経済成長をしている一方で、職を失う人も増えている。これまでは経済成長すれば、やがて雇用につながると思われていたのに、この20年、差は広がる一方なのは、なぜか。

 新しい技術が古い技能を、しかも従来の技術とは違って、広範に大量に奪っているから。

 

 もちろん、この成長がシンギュラリティに至って、機械が人類を支配する「ターミネーター」のような世界になる、なんてことはない。

tjo.hatenablog.com

 

 要は、これからの市役所職員は、機械に任せるべき仕事と、人間がやるべき仕事、人間でなければできない仕事の違いを考える必要がある。

 それは行政の職員として市民の生活を想像する、という要素よりも、市役所の仕事そのもののの大半が不要になっていくから。

 自分たちが今、やっている仕事は、やがて不要になる。つまりは、自分たちの存在そのものが。

 

 この点について、はっきり言って、市役所の中で真面目に考えている人に、ほとんど出くわしたことがなかった。

 もちろん、自分の出自が、市役所職員として特殊な部分はある。

 自分は95年秋にWindows95がリリースされた翌春の96年に大学の機械工学科に入学した。産業革命以来、200年にわたって世界を変えてきたのは機械工学だったけれど(20世紀以降は電気工学、そして通信の重要性も高まるけれど)、今、世界を変える技術がネットに移ろうとしている。じゃあ、今までどう変わってきて、これからどう変わっていくのか、ということを考える機会は、在学中にも、そこそこあった。

 しかも、その前年に事件を起こしたオウム真理教の幹部も複数輩出していた大学だったので、科学技術と社会の関わり、みたいな考え方にも触れる機会もあったし、在学中にアシモやアイボを生んだ何度目かのロボットブームもあって、人と機械の違い、について考える機会もあった。

 

 とは言え、今、市役所の50代の人たちを見ていたら、入庁当時から電卓、あるいはファクシミリくらいはあったかもしれないけれど、その後、ワープロ、メール、表計算ソフト、携帯電話の登場で、自分たちの仕事がどれだけ変わったか、考えませんか?

 入庁当時の自分たちに期待された職能が、どれだけ機械化され、省力化されているか気になりませんか?

 だったら、本当にその職員数、その給与水準が必要ですか?

 

※こう考えると、意外にも若い職員の方が比較すべき昔を知らないために、未来についての想像力にも欠けるのかも、とか今、書いていて若干、危惧した。

 

 もちろん、市役所の大きな枠組みとして、終身雇用と年功序列という制度がある。しかも、新しい技術に対応していくためには、若い職員も一定数、採用していく必要がある。

 

 であれば、明らかに市役所が取るべき方針は、省力化に合わせた職員数の削減だけではなく、新しい仕事を創っていくことになる。

 と言うか、どこで見かけたのか失念したので、原典を引用できないけど、別に中世から官僚たちというのは、自分たちの仕事を増やすのが仕事、という側面があるので、ほうっておいても仕事は創る。

 そもそも、今の若い人たちは、オフィス・オートメーション(OA)て言葉すら知らないんだろうけど、それを経ても市役所の職員数がそんなに減っていなさそうなので、今後も維持はしていくはず。

 

 それでは、今、あなたたちが新しく創る仕事というのは、本当に市民に必要とされる仕事なんでしょうかね?

 科学技術が進み、機械が台頭する社会の中で、市民に必要とされることとは何で、それを市役所の中で機械ではない人間がやるとき、いったい、どういう職員、どういう資質、どういう価値観、どういう考え方が必要とされるのか。

 それは地方自治法を制定した時代、定年間近の職員が入庁した時代の職員像と比べて、何が変わらず、何が違うのか。利害は対立しないのか。

 古い職員に欠けているとしたら、日々の意識づけや講習によって対応可能なのか、それらの人材を伸ばすような育成制度になっているのか、適材適所の人員配置になっているのか。

 

 僕が出した答えは、少なくとも、この点について、うちの市役所は、少なくとも組織としては全く考えてないし、個人レベルでも自分以外にほとんど気にしている人がいない、ということです。

 あるいは、考えていて、あのレベルの答えにしかならないのなら、無能すぎる。

 

 Win95が出てからの20年で、世の中が大きく変わった、という部分もあれば、まだまだ昔と変わらない部分もあり、ゆるやかな時代の変化の中で、しばらくは変わらずに残る仕事、というのも結局、多くあるのだと思います。

 それから、これは別の論点として稿を改めたいと思いますが、そういう時代の変化を市役所、あるいは市役所職員が積極的に意識し、対応すべきなのか、一番最後からついていけばいいのか、という点もあると思います。

 

 ですので、定年間近の人に限らず、今年の4月に市役所に入ったような若い人でも、後40年くらいは、十分、これまでの仕事の仕方をやり続けても、続けられる可能性は結構、あると思います。

 ただ、平均寿命が80才前後の現代、60才で定年退職して、社会と隔絶した組織で40年間暮らしてきた人が、貯蓄と退職金、年金で、その後20年、悠々自適の余生を送れるのでしょうか?

 そもそもが現役中から、1週間7日×24時間=168時間のうち、週5日×8時間=40時間”以外”の時間をそれで対応できるのでしょうか?

 たった40時間、しかし一番、労力を傾ける貴重な40時間の使い方が…まあ、それでいいって人はいいだろけど、少なくとも、俺は市民として、そいつらの時給は上から下まで最低賃金くらいしか払いたくないと思うんですよ。 

ソリッドな場所づくり論/影山知明「ゆっくり、いそげ」

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 ここ数年のまちづくりとか、コミュニティ・デザイン、あるいは地域おこし系の議論を聴いてると、どうしても、ゆるふわなトーンに、戸惑いを覚えてしまう自分がいる訳で。

 「お金じゃだけじゃない世界」、「数値化できない価値」みたいな話を持ち出されても、何だか、共産主義の亡霊を見ているようで(そもそも一定年齢より上の日本の市民活動系人材に左寄りの人が多い、とか、赤っぽい思想と社会福祉みたいな考え方の親和性が高いって現実はあるにもせよ)、それで本当に市場経済に対抗できますか? という疑問を払しょくしてくれない限りは、そっちサイドには立てないぜ、と創業者社長の赤貧家族育ちとしては思わずにはおれず。

 ソーシャルビジネスのスタートアップとか、そんな簡単なもんじゃないっすよ、と。

 

 いや、たとえば、機械工学の分野でも、昔はエンジンの性能を表すのに「馬力」って、それこそ、馬一頭と比較していた時代があったのが、いまや、ちょっとした小型自動車でも100馬力(≒馬100頭分!)くらいは余裕で出せる時代で、自動車では馬力は最高速度に影響してくるのだけど、日本の高速道路の巡航速度を楽々出して、各メーカーの自主規制最高速度(180km/h)さえも、普通に出せてしまう。

 となると、出力はもういいよって話で、それ以外の性能も求められて、騒音や振動、排気ガス、耐用年数、生産コスト、そして、何よりも燃費とかも重視される時代になっている。

 でも、それらは、基本的に数値化可能な価値で、数字で表現することができるからこそ、計測し、比較することができる、と言うことの重要性は、この間の「単位展」を見てきても思ったところ。

 数値化できない価値、ではなくて、1個の指標だけに捉われずに、多変数方程式として解けばいいだけじゃないの?

 もちろん、数字に落としたところで、方程式の数が構成する変数を表現しきるには足りなくて、しっかりと確定はできず、適当なところでバランスさせなきゃ、みたいな問題は、どこまで行ってもあると思うので、あんまり精緻に突き詰めて考える必要もないと思うのだけど。

 

 そういう中では、この「ゆっくり、いそげ」は明確に指標化まではしていないものの、それでも、ゆるふわした場所づくり論があふれる中にあっては、しっかりと、論理立てて、物事を捉えよう、としている感じがあって、好感が持てました。 

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

 

 

 著者の影山さん、東大法学部→マッキンゼーベンチャーキャピタル設立→喫茶店経営、ということで、納得の経歴。

 分かりやすい指標を設定した組織が、なぜ成長できるのか、しかし、成長した大きな組織、あるいは仕組みが硬直してしまい、弾力性を失ってしまうのは、なぜなのか、これからの社会が多様性を保っていくために、個人の自由をどう考えていくのか、と言った点で、大変、共感できる内容でした。

 近頃のコミュニティ議論を聴いていると、ともすると陥りがちな昔懐かしの村社会を再起動させる、という意見とは明確に線を引いて、本当に個人の自由を求めた結果、行き着く先としての、孤立ではない、コミュニティをどのように描いていくべきか。

 この本に、その明確な答えがある訳ではないけれど、おそらくは、それを見定めて、追求していく行為、そのものが重要なのかもしれない。

 

 ちょうど東京に出掛ける用事があって、行きの電車の中で読み終わったので、実際にお店にも行ってみました。

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 まあ、なんか、普通の落ち着いたカフェ、だと思います。

 

 ただ、その一方で、これからの時代に、大資本ではなく、地に足着けた小規模事業者が「普通のカフェ」を運営していくことが、どれだけ難しいことで、かつ、どれだけ重要なことか、というのは、感じたりも。